真の悔い改めは「やる気」を生み出す

 

<ご質問>

どのような状態が、救われた状態なのですか?

私はかつて、一度は救われたと思ったことがありますが、良く考えてみますと情欲も湧いてきますし、罪も犯しています。そんな私が救われたのか、疑問になってきました。救いの確信を教えてください。

 

<お答え>

救いとは、感情に依存していません。救いとは法的事実であり、こちらの感情が動いても動きません。なぜならば、「誰でも心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とあるからです。

イエス・キリストを自分の罪の救い主として信じる信仰があるならば、私たちの罪は100%赦されたのです。

救いを疑う人は、裁判が終わって無罪の判決が下りたのに、裁判官のところに何回も行って、「どうも、赦された気がしないのですが。」と言い続ける人に似ています。裁判官は、「もうすでにあなたは無罪との判決が下りているのですから、赦されたのですよ。うるさいからもう来ないでください。」と言います。

私たちは、神の御言葉をそのまま信じなければならないのです。

神が、「心に信じた人を義と認める」と宣言しておられるのですから、自分の救いを疑うことをしてはなりません。

疑うような癖がついている人は、際限なく疑い続けて、しまいにはノイローゼになったり発狂したりします。

サタンは人間の心から救いの確信を奪おうとします。聖書では、「疑いの火矢を放つ」と書いてあります。サタンの罠に警戒しなければなりません。

私たちは、2つの極端に注意すべきです。

(1)救われたのだから、何をやっても大丈夫だ、という偽善。

(2)救われたのにもかかわらず、自分はまだ救われていないのではないか、という神の約束に対する疑い。

この2つともバランスを欠いており、不信仰です。

それでは、救われた後の罪の問題はどうするのでしょうか。

救われた後にも私たちは罪を犯します。罪を犯さないクリスチャンなどこの世に存在しません。クリスチャンも同じように罪人です。

しかし、クリスチャンには、贖いがあり、罪の処理の方法があります。

それは、旧約時代においては、犠牲の小羊を祭壇に捧げることでした。小羊の頭に手をかざして、自分の罪が小羊に転嫁するように祈り、その小羊をほふります。その血を携えて、祭壇の下に血を注ぎ、契約の箱のところで注ぎかけます。それによって、私の罪は、身代わりに死んだ小羊のゆえに処罰され、赦されたのです。

この小羊とはイエス・キリストです。私たちは、イエス・キリストをほふって、その血を永遠の神の祭壇の前で注ぎかけるのです。イエス・キリストは十字架においてこの贖罪を成し遂げてくださいました。私たちは、その犠牲が自分のためだと信じることによって、この贖罪の効力を受けるのです。日々罪を犯すならば、思い出せる限りの罪を告白して、イエス・キリストの故に神に赦しを請います。

しかし、思い出せない罪もあるではないか、と言われるかもしれませんが、思い出せない罪については思い出させていただくしかありません。パウロは、「私は思い出せる限りの罪について悔い改めを行っているから誰にも非難される所以はない。」と断言しました。もし、思い出せない罪についていつまでも拘るならば、それは、際限のない自己解剖と罪意識というサタンの罠に陥ります。

私たちは、自分の内側を見つめるために生きているのではなく、神の国の建設のために前に向かって進むために生まれてきたのです。

 

キリスト教を誤解した人々は、一日中自己吟味に時間を費やして貴重な一生を台無しにしてしまいました。私たちは、思い出せる限りの罪を悔い改めたなら、後は神に委ねることです。そして、自分を忘れて、建設的な仕事に意識を集中させることです。

「自分は赦されているのか」という悩みは永遠に続きます。そのような空しいことのために時間を費やすのではなく、「神に対して悔い改めたのだから許されているのだ!」と信じて、あとは忘れることです。

たとえ私たちが罪を犯しても、神は悔い改めたことについて完全に忘れてくださるのですから、こちらもすっかり忘れて、前進しましょう。

 

<ご質問>

また、私が罪だと思うことも、他の人に言わせれば罪ではない場合(旧約聖書のハンマーが外れて誤って人を殺傷してしまった場合には、罪の定められない)は、殺意の無い殺人という事で、無罪という事ですが、もしそうだとすると、罪に対する認識の低い人は罪びとにならなくてすみませんか。

私のように、罪に敏感な者はどんどん惨めな罪びとになって行きます。こんなに苦労して、生きる意味があるのでしょうか?

<お答え>

すでに述べましたように、本当の悔い改めは、「希望」と「確信」と「やる気」を生み出すものです。もし悔い改めや罪の意識が「惨めさ」を生み出しているならば、それは、正しい悔い改めをしていないからです。それは、悔い改めではなく、不信仰の罠です。サタンは、人間を落ち込ませて、最後には自殺や自暴自棄に追いこもうとしています。

パウロのように、「私は思い出せる限りの罪を悔い改めているのだから、無罪だ。自分を含めて、私に向って文句を言う人のことなど気にかけるつもりはない。私は、もっと前向きなことを考え、行おうつもりだ。」といわねばならないのです。(*)

 

 

 

(*)

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」(1コリント43-4

ここでパウロは、人間の判定は有限であるから、そのような判定に左右されないといっています。自分自身ですら自分を裁こうとはしない、と言います。なぜならば、「自分にはやましいことは少しもないから」です。彼は、神の前に悔い改めをして、罪を処理していますので、人や自分からのそれ以上の判決は必要ないと言っているのです。しかし、同時に、彼は、「だから私はもう完全に聖いのだ」とは言いませんでした。なぜならば、真の判定者は神だから。

神は、心の内側の奥底にあることがらをも知りつくし、自分ですら知らない罪を見ておられます。ですから、私たちは、神の御前では常に謙遜にしていなければならないのです。しかし、他人や自分自身に対しては、可能な限りの悔い改めをしているならば、臆することはありません。大胆に人の前に、また、自分の前に出ることができるのです。

 

 

02/02/11

 

 

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