「9月14日(金)付読売新聞・編集手帳」への批判

 

 

古い川柳に「宝船日本からも一人乗り」とある。宝船には七福神が乗っている。大黒様と毘沙門様、弁天様の三人はインドの神。布袋様は中国の禅僧で福禄寿、寿老人もルーツは中国にさかのぼる。
日本からの一人は、釣り竿片手にタイを抱えた恵比寿様で、神道の神だ。宗教宗派のまちまちな神仏を一つの船に乗せ、縁起物として尊んできたおおらかさ、寛容さが日本の信仰風土にはある。
その目から見ると、「原理主義」ほど分かりにくいものはない。広辞苑にこうある。「キリスト教で、聖書は無謬であり、…根本教義は逐語的に真実であると信じ、…合理主義を批判・排斥しようとする立場」
異教徒の排斥に凝り固まった過激原理主義はいま、イスラムの世界で猛威を振るう。
テロ事件で疑惑の焦点にいるビンラーディンは、最も危険な指導者として知られる。
「時と場所を選ばず、ユダヤ人と米国人を殺す」よう呼びかけていたという。関与したと断定されてはいないが、こうした異質の敵が自由世界を根底から脅かしていることに、日本はこれまで鈍感であり過ぎた。
標的にされて対処できるのか。機密費の使い方も満足に知らない外務省は事前事後の情報収集さえ心もとなかろう。綿密に検証すること。そして策を急ぐこと。信仰に寛容はあっても、テロにはあり得ない。

 

 

「キリスト教で、聖書は無謬であり、…根本教義は逐語的に真実であると信じ、…合理主義を批判・排斥しようとする立場」

この広辞苑の定義を通じて読売が言いたかったことは、

(1)聖書は無謬であると信じるのは馬鹿馬鹿しい。創造があったなどと本当に真に受けているのか?進化論を否定するなんて非科学的だ。

(2)根本教義は逐語的に真実であると信じるなんて狂信的だ。処女降誕が逐語的に正しいなんてどうして言えるだろうか。

(3)合理主義を批判・排斥しようとするなんてケシカラン。世界を合理的に解釈しようとしないで、直感や経験だけで世界を見ようとするなど、文明への挑戦である。

というようなことを言いたいんじゃないかと思います。

これは、大体の人が感じることであって、イスラム原理主義を見ればまさにそのことは正しいと思います。「アラビア半島はイスラムの土地である。イスラムの土地に米軍の基地があるのは許されない。」という理屈は、合理的に批判されるべきでしょう。

「アラビア半島がイスラムの土地であり、イスラム教徒しか入れない」と誰が決めた?それじゃあ、イスラム教が始まる前には、イスラム教徒以外のものが住み着いていたのだが、それは許されないことだったのか?

こういった「理にかなった批判」というものを、宗教教義の名のもとに一刀両断に切り捨てるのが、「イスラムの」原理主義である。だから、パキスタンの原理主義者のデモを見ると、何か異様な狂信的ムードを感じてしまう。

さて、キリスト教の根本主義(「原理主義」という言葉は誤解を与えるので「根本主義」を採用したい)は、「合理性」や「科学的思惟」を尊重する。理に適っていない思想、考え方、行動は、極力排除しなければならないと考える。この意味において、根本主義は「合理主義」なのだ。

それでは、広辞苑の「合理主義を批判・排斥しようとする」という定義は、完全な間違いなのだろうか。

そうではない。

哲学において「合理主義」とは、「すべてを理性的に解釈しようとし、合理的なもののみを認めようとする考え」(大辞林)なのだ。

この意味の「合理主義」は批判されなければならない。なぜならば、このような「合理主義」は、人間の理性を絶対だとするからである。

「すべてを理性的に解釈しようとし、合理的なもののみを認めようとする」するなど、人間には不可能である。

もし人間が全知であるならば、それも可能だろう。しかし、人間は全知ではなく、理性が及ぶ範囲は限定されている。

例えば、人間は全知でないから、「処女降誕が歴史上一回も起こらなかった」ということを証明できない。宇宙の外側から超越者の力が働いて歴史に介入したことがこの歴史の中で一度もなかったということを証明できない。また、地球から数億光年のかなたにある星の地下300kmの岩石の組成を調べることはできない。その組織の中に、地球では想像もできなかったような元素が存在しないとは言えない。このように人間の理性的判断には、人間の有限性のゆえに、絶対的信頼を置くことは不可能である。だから、「創造があって、処女降誕があって、進化論は間違いで、イエスが復活したなんてのは、間違いだ」とは絶対に断言できない。

さらに、人間が知り得るのは、物事の表面の形状、色、運動などについてだけであって、その物の本質、意味までは知ることができない。目の前の岩石についてその形状、色、組成などについて知ることはできるだろうが、その「意味」を知ることは不可能である。

この限定をするどく認めたのがカント哲学なのだ。だから、カント以降は、理性や合理によって認識できる範囲を、「現象世界」に限定した。

宗教の領域、物事の意味、価値などの世界は、理性や合理によっては認識できないとした。

こういう意味において、近代哲学の初期のデカルト流の「オメデタ合理主義」は近代哲学においても、すでに否定されている。このカントの批判に対して、「オメデタ合理主義」の側は答えることができていない。

だから、キリスト教根本主義が、「合理主義を批判・排斥しようとする」と定義されたとしても、「そのとおり」としか答える以外にはない。キリスト教根本主義は、「この世界に存在するあらゆるものを、ただ理性だけによって、合理的にのみ考えることができる」などといいう考え方を捨てているのだ。

キリスト教根本主義は、「人間理性が扱える範囲は限定されている。合理全能主義は、否定されるべきである。」と唱える。

しかし、だからと言って、「科学など必要ない。」とは言わず、「論理的思考や合理的精神の価値までも否定するのはよくない。」とも唱える。

つまり、キリスト教根本主義は、「人間は、被造物としての限界を自覚せよ。人間は全知全能ではないのだ。」と述べる。

そして、「世界の解釈は、聖書啓示に従属しなければならない」と説く。

なぜならば、「人間の限界ある理性」は、「神の無限の理性」に従属しなければならないと考えるからである。

例えば、

神は、聖書において、死後の世界を啓示されている。しかし、人間の理性では、死後の世界があるかないか、また、それがどのようなものであるかわからない。だから、「それじゃあ、神の言葉によって理解しようではないか。」と言う。

 

まとめ:

(1)キリスト教根本主義は、被造物としての限界を認める「有限合理主義」を認める。だから、「合理」や「理性的判断」を尊重するので、「反合理主義」や「神秘主義」ではない。

(2)しかし、被造物としての限界を認めない「無限合理主義」を認めない。被造物としての限界を超えた事柄については、「合理」や「理性的判断」よりも、「聖書啓示」を優先する。

 

 

 

01/09/22

 

 

ホーム 

 



ツイート