予定論を除いたキリスト教などあり得ない

 

予定論を否定する人の最も根本的な問題は、「万物の無からの創造creation ex nihilo」の教理の否定にあります。予定論を受け入れられないのは、神が世界を無から創造したということを信じていないからなのです。

「神は悪を行えるか」という疑問を発する人の問題も同じです。神が無から世界を創造したのであれば、「善悪の基準」は神以外にはありません。つまり、神が善であると述べたことが善であり、神が悪であると述べたことは悪なのです。もし、神の言葉以外の基準があるというならば、神の創造の前にすでに何等かの基準が存在したことになります。しかし、世界は無から創造されたのですから、そのような基準があるはずはありません。すべてが神から出ているのです。基準も何もかも。

「神は美しいか」という疑問も同じです。プラトンは、神とは別に「真、善、美」の永遠の基準が存在すると考え、神とはこの基準に完全に合致した存在、と定義します。しかし、このような神は、「万物を無から創造した神」ではありません。神以外に「永遠の基準」が存在するということになれば、「はじめに永遠の基準ありき」になり、神は創造者でも絶対者でもなくなるのです。善悪の基準、美の基準は、神御自身なのです。

「神は絶対者である」という言葉には、「万物は神の意志によって成立している」ということが内容として含まれています。神の決定によらずして起こることは、この世界に一つもありません。もし、神の決定によらないで起こることがあれば、神は何かに影響を受けることになります。

人間は何かに影響を受ける存在です。例えば、通りを歩いていて車が飛び込んできてはねられて怪我をするということがあります。これは、人間が絶対者ではないからです。しかし、神は何にも影響を受けることはありません。もし影響を受けるならば、その事柄において主権性は崩れます。神は絶対的主権を持っているのですから、すべてにおいて「能動的」なのです。この世界において起こる一つ一つのことについて、神は主権的に関わっておられるのです。原子分子、素粒子の一つ一つの運動について神は主権を持っておられ、神の決定にしたがっているのです。この世界において偶然に起こることはなく、すべてが神の決定と計画によるのです。

神は歴史において起こるすべての出来事をすべてあらかじめ決定されました。歴史は、神の計画どおり寸分の狂いもなく推移しているのです。もし歴史が計画によらずに推移しているというならば、歴史は偶然の出来事の累積です。この場合、神は次々と不測の事件によって影響を受けることになりますから、相対者でしかなくなります。神が絶対者であるならば、神は歴史の隅々まで完全にあらかじめ計画しておられたと結論せざるを得ないのです。

神は、クリスチャンに福音を委ねられ、人々に語るように命令されました。福音を聞いて信仰に入る人もいれば、それを拒む人もいます。常識的に見れば、神が信仰を受け入れる人の反応を見て喜んだり悲しんだりするように見えます。「○○さんは私の和解のメッセージを受け入れてくれた。万歳!」、「△△さんには拒まれた。残念。」と。

しかし、神は相対者ではなく、万物をあらかじめ決定しておられるのですから、救いについても、完全に主権者なのです。神が救われるように予定された人は信じ、予定されていなかった人は信じないのです。

神は無から世界を創造されたのです。創造の以前には、神以外いかなる基準も、秩序も、世界も存在しないのです。万物はすべて神から出たものであり、神はそのすべてにおいて絶対的主権者であり、何にも影響を受けず、誰にも脅かされず、誰の妨害によっても計画が頓挫することはないのです。悪者ですら、神の意志によって作られたのです。

「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえも…造られた。」(箴言164

我々が目にしているすべてのことは、すべて神の決定によっているのですから、「究極的現実」です。目の前にある箸がテーブルから転がり落ちたことも、すべて永遠の昔に神が決定された究極的現実なのです。

現代の世界は、絶対神を認めないので、歴史を偶然の集積と考えます。それゆえ、予定論は非常に嫌われるのです。クリスチャンすらも、予定論を嫌い、救いの主導権を人間に譲り渡しています。「あなたが救われたのは、神があなたを愛し、あなたが信仰に入るように選んでいてくださったからです。救いは一方的な恵みです。」といわずに、「あなたが救われたのは、あなたが神のメッセージを受け入れたからです。あなたが受け入れなければ神もあなたを救うことはできないのです。」と言います。

しかし、救いの主導権を人間に譲り渡すならば、当然、神は相対者になり、神を貶めることになります。そのため、今日の教会は人間に幸せを売るディズニーランドのようなものになり、神は人間の幸せに奉仕するミッキーマウスになったのです。

神がクリスチャンを選ばれたのは、クリスチャンを通して、神の栄光をあらわすためです。神の栄光とは、具体的にこの地上のあらゆる事柄において、神の支配を拡大し、ついには、全世界の国民をすべて「キリストの弟子」(マタイ28章)とすることです。

キリストが世界の実質的な王として崇められ、万物が聖書に記された神の法によって運営されることこそが御国の完成であり、そのために歴史は推移し、クリスチャンはそのために働くために救いに与ったのです。救いが目的ではなく、救いは神の計画の中の一つのステップなのです。

御国の完成は、あらかじめ神が永遠の昔に決定しておられることです。我々がサタンに勝利し、世界を福音によって征服することはすでに定められているのです。

「無からの創造」→「万物に対する絶対主権」→「予定」→「選び・任命」→「御国の完成」は、キリスト教の基本的世界観であり、これらの要素はどれ一つとして欠くことができません。予定論を除いたキリスト教などあり得ないのです。

 

 

 

01/11/23

 

 

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