ユダヤ人が回復したら、すぐに再臨が来る?

 

ハーザー誌11月号に、ブリッジス・フォー・ピース日本支部局(BFPJ)がテロ事件に関して、「イスラムの霊が世界的に暴れているのは、ユダヤ人の国家的救いの預言が成就した時、主が再臨するからであり、サタンが再臨を一刻でも遅らようとしているためである」という趣旨のことを言っている。

たしかに、ユダヤ人の救いと再臨は関係がある。また、今日のイスラムがユダヤ人に対して敵対的であることも、再臨とまったく無関係であるとも言えないだろう。

しかし、BFPJは、致命的な誤解をしている。

それは、ユダヤ人の国家的回復と霊的回復の後に、世界的なリバイバルが起こり、世界の諸国が弟子化されるという「かなりの期間を要する再建の時期」に関する聖書の予言を無視している点である。

パウロが、ローマ11章において、「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。…もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ1112-15)をどう解釈するのだろうか。ここでは、ユダヤ人が回復することは、世界の復活、リバイバルであると述べられている。

「いやいや、このリバイバルは、キリストの再臨による千年王国の開始を表しているのです」とでも言うだろうか。

しかし、使徒3:20-21には、「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」 と言われている。

つまり、万物の回復は、再臨のイエスによって成就するのではないとはっきりと述べられている。まず、回復は、弟子たちが、「全世界に出て行って、あらゆる国民を弟子とする」ことによって成就する。

ユダヤ人が回復したら、すぐに再臨が来るという意見は、イエスの「弟子作り命令」(マタイ28章)を無視した謬説である。ユダヤ人の回復に続いて、世界的リバイバルが起こり、福音伝道によって、世界の諸民族が弟子化されていく。これは、非常に長い時間がかかる。そして、この弟子化を推進するのは、イエス自身ではなく、弟子たちである。

聖書は、繰り返し、敵が足台となるまで、キリストは天に留まっていなければならないと述べている。

「『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』 」(使徒234-35

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル1012-13

 

BFPJは、マタイ24章の預言を世界終末の預言と誤解し、「今ほど民族が民族に対抗して小競り合いが起こっている時代はありません」と述べ、この預言が現代に適用できると考えている。

しかし、マタイ24章が世界終末の預言であるということがどうして言えるのだろうか。

イエスは、この「民族は民族に敵対する」(マタイ247)などの、マタイ24章の兆候が「全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」(マタイ2434)とはっきりと述べている。

ここで「時代」と訳されているgeneaという言葉は、聖書においては、「一世代」を意味し、30-33年を指すのである(これは、Greek-English Lexiconを調べて確認していただきたい)。つまり、7節の「民族対立」は、イエスの世代の中で起こるとはっきりと述べている。

さて、この批判に対して、BFPJをはじめ、同じような見解をとるプレ・ミレの人々は答えることができるだろうか。

我々は、自分の感覚や常識で、聖書を解釈してはならないのだ。

聖書は、あくまでも古典である。聖書の直接の読者は、当時の人々である。我々の、現代的感覚で解釈してはならないのだ。あくまでも、文脈を当時の人々の立場に立つことによらねば誤解してしまう。

「今ほど民族が民族に対抗して小競り合いが起こっている時代はありません」などということがどうして言えるだろうか。

世界分割を巡る19世紀中葉から20世紀中葉までの帝国主義戦争の時代のほうが、はるかに小競り合いの数は多かった。規模という点でも、先の2度の世界大戦のほうが、今日のイスラム対アメリカよりも、比較にならないくらい大きかった。

聖書を文脈から外れて解釈すると、このように何でも現在のことにしてしまいがちなのだ。それは、人間の「自己中心」にものを考えるという性向ゆえなのだ。だから、我々は、聖書を、できるだけ歴史の文脈と聖書の文脈に合わせて客観的に解釈する努力が必要なのだ。

何度も何度も繰り返されるこのような「預言の私的解釈」に対して、キリスト教界は、いつになったら悔い改めをするのだろうか。

我々が扱っているのは、人間の言葉ではない。<神の言葉>なのだ。

神の言葉をいい加減に扱った預言者は、旧約においては、石打にされたのだ。それほど「私的解釈」の罪は重い。

軽々に、「再臨は近い」などと言って人々を惑わしてはならない。

 

 

 

01/10/21

 

 

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