財産の共有について

 

<ご質問>

使徒の働き434-35節:「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」において、共産主義社会の原型が描かれているようですが、これは、マルクシズムとは異なるのでしょうか。

<お答え>

この個所において、財産の共有は、あくまでも「自発的」である、という点が重要です。ペテロは、財産を持ってきたアナニヤに向って「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」(使徒54)と述べています。ペテロたちは財産を強制没収したわけではないのです。

しかし、マルクシズムの場合、財産を共有することは「義務」です。財産を所有できるのは国家のみであり、それゆえ、マルクシズムの国において、国家とは「万物に対する全権を所有する」神になります。

私たちは、聖書の共同体について考える場合、「共同体は個人と家庭の権威を脅かしてはならない」という原則を重視する必要があります。財産を所有する基本単位は、個人であり家庭です。そしてこの「私有財産権」を基礎としなければ、共同体そのものが弱体化し、崩壊します。

なぜならば、ソ連や国鉄の実例を見てもわかるように、「財産は個人に任せるのが一番であり、国家が所有すると財産は無駄に浪費される」からです。

共同体を経済的に成長させるのは、個人の「金を儲けて、財産を蓄えたい」という欲望です。(*)個人は、自分の利を追求する過程において、意図せずとも共同体の発展に貢献するのです。もし、個人が稼いだ御金が共同体に没収されたり、共同体が私有財産を軽視して、個人の財産が悪人によって略奪されることを黙認するようであれば、個人はヤル気を失い、税収も減って共同体そのものが衰退します。構成員は、リスクを犯そうとせず、できるだけ楽な仕事を選び、コネを使って利権を得ようとします。

また国有化された組織や財産は、それを管理する人々が「自分のものじゃないから適当にやろう」、「たとえ失敗しても税金を使って埋め合わせをすればいいや」と考える傾向があるので、非効率的に使用され、浪費されることになるのです。

聖書の原則は、個人や家庭と国家とはそれぞれ統治領域が異なり、一方が他方を圧迫したり、その権利を侵害してはならない、ということです。ですから、財産の国有化や、高率(10%以上――神が10%しか要求しないのに、被造物である国家がそれ以上の率を要求できない)の徴税は、国家による家庭と個人の権利の侵害に当たります。

戦後日本を支配した税制はマルクシズムに基づくものであるため、国家はイニシャチブに富む国民のヤル気を殺いできました。国家は、累進課税により成功者から成功の果実を奪うことによって、「成功」を罰してきたのです。

このような税制がうまく行くはずはありません。この失敗に、近年ようやく国家も気づき始めましたが、未だに「個人の資産は万人に共有されるべきである」という偽りの共同体理念は完全には消えていません。

個人は、個人が所有する権利を、神から与えられているのです。この権利を奪うことのできる人は誰もいません。国家は、このような個人の権利を守らねばなりません。国家の主要な役割の一つは、「自分の財産を自由に処分できる個人の権利を守ること」にあります。しかし、マルクシズムは、国家そのものを泥棒に変えてしまったのです。

共同体発展の基本は、「あなたの隣人のものを盗んではならない」という戒めにあります。日本経済の未来は、この原則をどれだけ厳格に維持できるかにかかっています。一日も早く、国家は自分のいるべき場所に戻り、マルクシズムの「救済主としての国家」像を捨てるべきです。

 

(*)

個人の利欲を聖書はそのまま肯定しているわけではありません。聖書では、個人は、神から財産の管理を委ねられていると教えられています。私たちの所有物は、あくまでも「神のもの」であり、私たちのものではありません。この地上において、私たちは、神から委ねられたものをどれだけ効率よく管理し、それをどれだけ増やすことができるかをテストされているのです。それゆえ、私たちの人生の終わりに、清算が行われ、神から「おまえは私が預けたものをどれだけ増やしたのか?」と問われます。この意味において、キリスト教的資本主義とは、世俗資本主義とはまったく異なります。

世俗資本主義は、財産の究極的所有者は個人であるとします。それゆえ、金持ちは神に対する責任を無視して、自分の道楽や無秩序な投資に使い、社会的弱者をますます圧迫し、社会正義を無視する傾向があります。金儲けそのものが自己目的化し、労働者を圧迫します。

神を忘れた資本主義は、金を崇拝する「マモン教」に堕してしまいます。

このような世俗資本主義の悪は、共産主義革命を誘発する主要な要素になりました。

神を忘れた資本主義は、無秩序に増え続ける癌細胞に等しく、神的秩序破壊のためのサタンの道具になります。

「共産主義」が国家を究極とする全体主義の宗教――つまり、「一」の宗教――であるのに対して、「世俗資本主義の私有財産制」は個人を究極とするアナキズム――つまり、「多」の宗教――です。

キリスト教は、個人のイニシャチブと全体の利益を神の規範によって調和させる「一と多」の宗教です。

 

 

02/02/20

 

 

ホーム 

 



ツイート