悔い改めるように忍耐されている者とは?

 

<ご質問>
さて、本日は第二ペテロ3:9について、おうかがいします。新改訳では、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」となっていますが、文中「すべての人」は、「あなたがた」即ち書簡の宛先「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」、選ばれた民であるクリスチャンを受けているのでしょうか。それとも、文字通り未信者も含めた「すべての人」を指しているのでしょうか。讃美歌に「ひとりだにも滅ぶるは、御旨ならじ」とありますが、選びの教理と合わせて、どのように解釈したら良いのでしょうか。お忙しいところ恐縮ですが、宜しく御教示下さい。

<お答え>
聖書を解釈する場合に重要なのは文脈です。
この第2ペテロは、近づきつつあるイスラエルの終末に際して、クリスチャンはどのように備えをなすべきかについて記してある手紙です。

ユダヤ人に対する裁きが預言されてからすでに30年以上たっており、次第にいらだちを覚える人々が現われるようになりました。「遅いではないか。何故神はイスラエルを裁かないのか。」と。
遅れている真の理由は、ユダヤの各地やローマの他の地方、そして、世界の諸国に散らばったディアスポラのユダヤ人(さらに異邦人も(マルコ13・10))に福音を伝えて、選びの民を集め、救いに導くのに時間がかかっていたからでした(マタイ24・31、マルコ13・27)。
初代のクリスチャンたちは、キリストの来臨がすぐにでも起こるかのように考えていたため、数十年の月日がたつにつれて、次第に疑いの気持ちが起こり始め、しかも、あざける人々がやってきて「来臨の約束はどうしたのか。遅いではないか。」と嘲笑するようになった。

しかし、イエス御自身は、「裁きはこの時代(γενεα=30〜33年)の上に下る」と述べておられるのですから遅いとは言えません。

「まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」(マタイ23・36)

イエスが預言されたのが紀元34年頃とすると、第1次ユダヤ戦争が始まったのが紀元66年ですから、32年後に裁きが始まったということになり、ちょうど一時代内に起こったことになります。そして、紀元70年には神殿が破壊され、旧約の宗教システムは完全に崩壊しました。

この終末の様相については、聖書の様々な個所において預言されています。

パウロは、イスラエルの終末間近に、自分の欲望のままにふるまう人々が現われると述べています。
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」(第2テモテ 3・1)

ユダも同じように述べています。

「彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。』」 (ユダ18)

宗教については、偽の教えを唱える人々がたくさん現われ、人々がそれに従っていくといわれています。

「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24・10-12)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。… 」(第2テモテ4・2-5) 

これらのような背信と無律法の世相は、第2ペテロにおいてもはっきり述べられています。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」 (第2ペテロ3・3-4)

さて、このような高慢と不道徳の時代は、滅亡の前触れです。

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16・18)

しかし、神は選びの民だけは、このような破滅に陥らせないために、救いのチャンスをお与えになります。

聖書では、イスラエルの終末の前に、福音を伝えるために派遣された使徒たちによって選びの民が集められる、と預言されています。

「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその<選びの民>を集めます。」(マタイ24・31)

ここで「御使い」の原語αγγελοsは必ずしも天使を表しません。ギリシャ語辞典によれば、a messenger(メッセンジャー), envoy(伝令), one who is sent(派遣された者), an angel(御使い), a messenger from God(神からのメッセンジャー)という意味です。 マルコ1・2ではバプテスマのヨハネのことを、ルカ9・52とルカ19・29では「伝令」のことをαγγελοsと呼んでいます。つまり、ここでは、福音を伝えるために派遣された者たちが人々を回心に導き、救いに予定されていた人々を集めることを指しているのです。

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ13・39-41)

ここでも、「天使」の原語はαγγελοsです。イスラエルの終わりには、選びの民とそうではない者とが福音に対してどのように応答するかによって選別され、サタンの子たちには裁きが下るということを教えているのです。

「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。」(マルコ13・19-20)

神が救おうとされているのは、選びの民だけだということが分かります。

さて、これらのことから言えるのは、第2ペテロにおいて「神がひとりも滅びることなくすべての人が救いに導かれることを…」が、けっして「万人」の救済を意味しているのではないということです。

「来臨の約束はどうしたのか」とあざける人々は、自らの意志によってあざけることを選択したのですから、当然救いからもれるのは間違いありません。

18世紀の大注解者ジョン・ギルは、次のように述べています。

「神は私たちに忍耐しておられる:これを万人を指すと考えることはできない。ここにおいて言われている忍耐されている人々は、…第2ペテロ3章3,4節において言われているキリストの来臨の約束を嘲笑う人々とは明らかに区別されている。…神が『誰も滅びることを望んでおられない』と言われたのは、万人についてではない。また、万人が悔い改めに導かれるべきであると言われているわけでもない。というのも、彼らの多くは、自分の罪の中で滅び、悔い改めることがないからだ。もし彼らが自分の意志によって悔い改めを選び取るならば、彼らは滅びることはないのだが。」

もし神の選びにある人であるならば、神はたとえ彼がはじめ嘲っていても、後で彼をへりくだらせ、回心させ、救いにあずからせてくださいます。しかし、最後まで嘲るならば、彼は最初から神の救いの選びの中にはなかったということが明らかなので、救われることはありません。

イエスは、使徒たちに、「すべての造られた者に福音を伝えよ。」と言われました。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」(マルコ16・15)

それゆえ、悔い改めのチャンスは全員に提供されなければなりません。しかし、たとえ福音が提供されていても、選ばれている人はすでに神の側において決定されているのですから、選ばれている人々は嘲るのを止めて回心し、選ばれていない人々は嘲り続けて裁きにあいます。

神は、「選ばれている人々が」滅びることを望まず、全員が悔い改めに進むように、忍耐して待っておられるのです。

 

 

02/04/12

 

 

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