無知な人は上に立ってはならない


<fms様>

富井先生

>しかし、こと牧師の世界は、他のプロの世界と違う。
>勉強すると怒られるのだ!
>自分のプロの道において、進歩しようとすると批判さ
>れるのだ。
>今日、ほとんどの教会が、異端に侵されたのも当然と
>言わねばならない。
>なぜ、先輩牧師は後輩牧師が勉強することを嫌うのだ>ろう?

それは、やはり自由主義神学のせいではないでしょうか?

自由主義神学が主流(?)のようになっている今日の状況では、クリスチャンが勉強すればするほど、かえって信仰を失うということもあろうかと思います。

聖書信仰に立つクリスチャンも、意気込んで神学部に入学したものの、学んでいるうちに「信仰」というものがわからなくなってしまった、という話を耳にします。

ある神学生は、そのことで悩み、神学校の牧師に相談したところ、「キリスト教とはこんなものだという先入観が学びによって崩れ去り、信仰とは何かがわからなくなってこそ、本当の学びの始まり」などと言われたそうです。

「神学の使命は、人の心に疑惑を起こさせ、素朴な信心を動揺させるところにある」という態度を「神学的誠実さ」とするのなら、まぁ、それもありかな、とも思いますが、聖書信仰に立ちたいと願っている人は躓いてしまい「もう、神学なんかやりたくない」と言い出すに違いありません。

fms

<tomi>

同感です。

自由主義神学の学校、または、新正統主義の神学校に入学して、素朴な信仰を維持することは不可能です。

先輩牧師が後輩牧師に勉強することを禁止する傾向があるのは、このように自由主義神学に熱心になった結果信仰を失ったり、おかしくなったりした人々が多いからでもあるでしょう。

しかし、それは、間違った解決法です。

「悪い神学」を勉強するな、というのは正しいですが、「良い神学」もあるのですから、「勉強そのもの」を否定するのは間違いです。

では、「良い神学」とは何か、ということになりますが、神学とは、聖書に啓示された神の御心を学ぶ神学であるわけですから、「聖書を疑わない神学」ということになります。

自由主義神学の神学校は、ミイラ取りの方法を学びに来た人々をミイラにして教会に送り返す学校です。

私が大変奇妙に感じるのは、教会は、送る人送る人がみなミイラになって帰って来るのに、その学校に疑いも持たず、献金と人材を送りつづけていることです。

普通、健常者がミイラになって帰ってきたら、「おいおい、なんてことしてくれたんだ!」と怒るものです。

そして、「この学校おかしいぞ」と言って縁を切って、周りに警告を発するはずです。

なぜそれをしないか、というと、教会そのものがミイラだからです。

私は、聖書解釈の方法として、「実存的解釈法」というのを教会は採用すべきと考えます。

「実存的」といっても、「実存主義」とは関係ありません。

実存的解釈法とは、「その解釈を取ると、人生に意味がなくなるような解釈を拒否する」という方法です。

たとえば、復活や処女降誕の歴史性を否定するような解釈を拒否します。

復活が歴史的事実でなければ、信仰に意味はなくなります。キリスト教は単なる「道徳訓」になり、教会は、「キリスト教的な生き方が好きな人の同好会」になります。

しかし、聖書が教えている復活とは、「我々の罪の赦しを保証する歴史的事実」であり、もしキリストが実際に死んでよみがえらなければ、信仰は「実質のないものになり」(1コリント15・14)命を失います。

残念ながら、日本のキリスト教界で、出版物の大半は、この自由主義神学か、それに対抗するために生み出されたが実際はそれと変わらない新神学のものです。

歴史的宗教改革に直系の神学も、ディスペンセーショナリズムという異端によって19世紀前半から崩された欠陥神学であり、今日、日本のクリスチャンが日本語で学べる著書はほとんどありません。

唯一救いは、カルヴァンの『キリスト教綱要』です。

英語では、正統神学の良書が無数に存在するのに、日本にはそれらがほとんど翻訳されていません。

ですから、英語国民の場合は、神学的逸脱がある場合、言い訳は許されませんが、日本の場合は、ある程度仕方がないという部分があります。

ですから、私は、神学校に入った学生は、徹底して英語を勉強して、英語の著作をかなりのスピードで読む訓練をして欲しいと思います。

神学校で学べることは、「知識を得るための方法」であって、そこで学べる知識などたかが知れています。それだけで、牧会をやるなんて無理です。

英語の知識は不可欠です。

今、日本語で出版されている雑誌を見てください。

ほんとに、悲しむべきことに、歴史的に正統と呼ばれてきた立場に立つものが「皆無」なのです。

「いや〜、何を正統と呼ぶのかね。」と反論されそうですが、英語世界において歴史的に蓄積されたキリスト教書籍の膨大な遺産と、その中にある常識、つまり、スタンダードに触れたことがないからなのです。

日本語の読者は、それらに触れたことがない!!

これは事実です。

日本のキリスト教は、スタンダードを経由せずに、最新の情報が入ってくるから、諸思想のごった煮状態になっている。

受験でも何でもそうですが、その道の「スタンダード」というのがあって、定評がある書物があります。いろんな書物に触れるには、このスタンダードから出発したほうが近道だ、というのがある。

たとえば、私が高校時代に「試験に出る英単語」というのがあって、それが受験英単語のスタンダードとされていました。先生もそれを推薦していた。

古文にも「古文研究法」というのがあった。数学なら矢野健太郎がいい、とか、そういった定評のあるものがあって、それをやることが合格への近道というのがありました。

キリスト教も同じで、まず『キリスト教綱要』も読まないで神学校出たなんて言って欲しくない。

私に批判を寄せる人々は、ほとんど、こういったスタンダードを経由していない。だから、常識と呼べるようなことすらも批判している。つまり、何を否定しているのか自分でもわかっていない。めちゃくちゃなんです。

たとえば、ある長老は、「再建主義は契約神学なんてことを言っている」と批判しました。

「え〜!改革主義の長老が契約神学を否定するんですかぁ!???」

唖然とします。

つまり、我々が言っていることと、歴史的にスタンダードとされていることの区別ができていない。スタンダードを勉強していないからです。

こういったシロウトが支配しているのが、今の日本のキリスト教界なのです。

どの分野もそうですが、無知な人は上に立ってはならない。

 

 

2004年3月6日

 

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