我々が独自に始める以外にはない

 


むかし、ナビゲーターのシステムを使って弟子訓練という小グループ活動をやっていたことがあります。四つの法則のような、アメリカ流のハウツー形式で、グループ単位で集まって、空欄を埋めていくという作業を行ったり、デボーションの方法などを教わるのですが、どうなんでしょうか。

私は、聖書研究のグループを開くほうがずっといいと思いました。
聖書をじかに学ぶ機会というのがほとんど今の教会にはないと思います。
ほとんどが、牧師が調理したものをメッセージという形で受け取るだけですから、牧師のカラーに染まっているだけで、聖書からじかに影響を受けるということがほとんどないという感想を持っています。

牧師も個性がありますから、聖書をまんべんなく講解してくれるわけではない。偏りがある。そのため、自分が神学校などで学んだパラダイムをそのまま伝えることになり、聖書が提示しているもっと大きな世界を知ることがない、というのが実情の気がします。

事実、20年、30年のベテランクリスチャンでも、話して見ると、ほとんどイロハも知らないということが多いと思います。非常に小さくまとまっている。しかも、歪んで。

長老会に出席している人々のほとんどが、神学についてずぶの素人で、どうして教会を牧会できるのか不思議です。

現在の日本では、「堅い食物」を提供しているのが、ほとんどリベラル派であり、またリベラル派を逃れたとしても、たどり着く先が、ディスペンセーショナリズムであるため、福音的教会の成長したクリスチャンは、聖書信仰に立つ正統的な教理をほとんど学ぶチャンスがありません。

改革派はこの点において、教育がしっかりしていますが、しかし、残念ながら、改革派の主流は、ア・ミレなのです。未来に希望をもたせるような教えは提供していない。そのため、結局、教理教育は、ウェストミンスターへの回顧であり、古物愛好グループのような様相を呈しているというのが実情ではないでしょうか。

日本に本格的にキリスト教が入ったのが、19世紀の後半であり、その時代には、世界のキリスト教は、リベラルか、ディスペンセーショナリズムのどちらかになりつつあり、しかも、進化論も教会に入っていた。

この時代にイギリスで古い教えを死守していたスポルジョンも、晩年には、背教の時代がしばらく続くだろう、と予言をしております。

そのため、プロテスタントが宣教を開始した明治時代から、まともなキリスト教は一度も入ってこなかったと言ってよいでしょう。

現在の日本のクリスチャンにとって非常に大きなハンディは、我々の曽祖父の時代の先輩にですら、教えを求めることはできない、ということにあります。

結論は、我々が独自に始める以外にはない、ということです。


 

 

2003年12月21日

 

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