洛西キリスト教会は奥村拓也牧師を講壇に立たせ続けるのですか?


<奥村牧師>
エホバの証人、統一教会、モルモン教、などが異端として言われるのには、異端の定義が明確で、そこからずれているからです。ワンネスのことは書かないでしょ!それはグレーだからです。三位一体論はおかしいけど、救済論においては受肉も贖罪も復活も信じるからです。フルプレテリズムをそれらの異端と同列にならべる、この発言は異端の定義が曖昧で、富井さんが恣意的に自分の考えに合わなければ異端としてしまうように思え仕方がない!

<富井 健>

奥村牧師は、私に、異端の定義をせよ、と求めました。彼の要請に応じて大至急(3時間かかった)以下反論しました。
http://www.millnm.net/qanda2/91ut56ZG8yeU70280.htm

しかし、彼は、まだ私がこの文章を送信していないうちに、「異端の定義」について明らかにならない段階で、自分の異端の定義を持ち出して、「異端の定義が曖昧である」と勝手に結論を出し、こちらの意見をまるっきり無視した上で、一方的な議論を展開しています。(これは議論じゃなく、ただの断罪ですが。)

こういった不誠実な対応だけではなく、彼が「キリストの贖罪以外にも救いの道を用意する」フルプレテリズムを異端とせず、また、非三位一体論のワンネス神学をも容認する発言をしているのはゆゆしい問題です。

彼は、「三位一体論はおかしいけど、救済論においては受肉も贖罪も復活も信じ」れば、異端とは呼べない、と言っています。

当たり前のことだが、三位一体論がおかしかったら、それ以外何を信じていたとしても、異端なんです。「グレー」ではなくて、「ブラック」です。

なぜならば、歴史的に、教会は、三位一体論において失敗した人々を異端者と呼んでいたからです。

それに、聖書は異端の基準を「それを用いれば滅びに至る教え」「作り事の教え」「イエスを主と認めない教え」としているのですから(2ペテロ2・1-4)、聖書から見ても間違いなく、非三位一体論は異端以外の何物でもない。

それとも、神には、父、子、聖霊の3つの人格があると断言している聖書を信じず、神の人格はイエスだけであり、父と聖霊はイエスが変身した姿であるという教えが「作り事」ではないと言うのですか?

では、イエスが父に向かって「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17・5)と呼びかけたのは、あれは、自分自身に向かって言った独り言だ、とでも?

ワンネス神学は、自分から「我々はサベリウス主義と同一である」と述べています。
http://www.millnm.net/qanda2/31mffugSFSqyE22844.htm

歴史的サベリウス主義は、父なる神が神の唯一の人格である単一の神だけが存在し、その神が父・子・聖霊として自らを現すと述べるのに対して、今日のワンネス神学は、この神の唯一の人格はイエスである、と言います。ワンネス神学は、「聖書が父または聖霊について語った部分は、実際はイエスのことについて述べているのである。イエスは、神の他の形式(つまり、父、聖霊)で、ご自身を啓示しておられる」と説きます。ワンネス神学の信奉者の中には、この考えを『ジーザス・オンリー主義』と呼んでいます。(http://www.nationmaster.com/encyclopedia/Sabellianism

(上記訂正については、http://www.millnm.net/qanda4/13cpLgojjl9Qs45543.htmを参照のこと。)

もちろん、サベリウス主義は、異端として拒絶されてきましたので、ワンネス神学も異端とすべきです。

チャールズ・ホッジは、サベリウス主義について、次のように述べています。

「これらの3つの古代信条――ニケア、コンスタンチノプル、アタナシウス――において提示された三位一体の教理は、キリスト教信仰の根本個条の教会的形式である。」(Charles Hodge, Systematic Theology, vol.1., p.459)。さらに、「(サベリウス主義は、)すぐに、ほとんどあらゆる教会(almost universally)から拒絶された」(Ibid., p.452)と。

事実、3世紀中ごろに、サベリウスは除名され、異端と宣言されました。


ローマ会議において次のように宣言されました。

「我々は、サベリウスの誤謬に従い、同一の人格が父にもなるし、子にもなると唱える者をも除名する。」


イグナチウスは、キリスト論における異端として、サベリウス主義を挙げています。(http://www.velocity.net/~edju/web/Trinity1.htm

歴史的に、正統的な教会から「即座に」拒絶されたのと同類の教えを異端と呼んではならない、それは、「グレー」であり、「それを異端と呼ぶ富井は、自分の考えに合わなければ異端としてしまう」人だ、と奥村氏は言うが、どうでしょうか。

とくに、奥村氏を教職者として迎えている教会の長老の方々へお尋ねしたいのです。

みなさんは、「キリストの贖罪信仰以外に救いを得る道として、律法の廃棄を提唱する」フルプレテリズムと、「三位一体論を否定する」ワンネス神学を異端として拒絶しない奥村牧師を、これからも教職者として講壇に立たせ、みなさんの羊を歴史的に正統ではない教えによって混乱に落とし入れ、異端の教説によってバタバタ死滅することをお認めになるのでしょうか。

パウロは、「キリストの十字架だけではなく、割礼を受ける必要がある」と述べた人々に「のろい」を宣告しました。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1・8)

「のろわれる」べき教えや人を拒絶しない人を牧師として迎えてよいのですか?

フルプレテリズムという「滅びの意見をもたらす異端」(2ペテロ2・1-4)を拒絶しない牧師を受け入れていいのですか?

 

 

2004年2月28日

 

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