侵略戦争を抑止できないキリスト教は捨てられる

 


1830年代からディスペンセーショナリズムが、ダービーの天才的な説得力と精力的な活動によって世界に流行したのと、世界の帝国主義戦争の広がりの時期とが一致しているのは、偶然ではないだろう。

「地の塩」であるクリスチャンは、暴力や戦争を抑止できるはずである。しかし、そのクリスチャンが、「戦争の拡大は、世界の終末のしるしだ。これがなければ世の終わりは来ないし、キリストも再臨されない。」と考えたらどうだろう?

また、ユダヤ人の虐殺を見ても、「これは、黙示録において預言されていることだ。」と考えて放置したらどうだろう。

ディスペンセーショナリストは、「聖書の預言の言葉」を、侵略戦争や大量虐殺を傍観する大義名分に使ってきたのだ。

事実、今日でも、「平和主義や活動は無意味である。むしろ世界で悲劇が起きれば起きるほどワクワクする。それはキリストの再臨が近いことを覚えるからだ」と言う人間がいる。

正直言えば、ディスペンセーショナリズムを信じていた頃の私も同じだったことを悔い改めつつ告白しよう。

ソ連のアフガン侵略を見ては、「いよいよソ連が南下政策をとり始めた。次は、ペルシャ湾岸諸国を引き連れてイスラエルに侵略だ」などと、ワクワクしながら他国の悲劇を傍観していた。

ノンクリスチャンが、戦争反対を叫び、平和のために戦っているのに、クリスチャンが戦争を傍観し、むしろ、戦乱を楽しみにしているというのは、どういうことだろう!?

「地の塩」どころか「地の腐敗を進行させる菌」に成り果てたクリスチャンに魅力があるだろうか?

イラク戦争においても、ディスペンセーショナリストは、アメリカの行動を抑止するどころか、それを積極的に支持した。

ディスペンセーショナリズムが捨てられるのも時間の問題だ。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5・13)

 

 

2004年1月3日

 

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