信仰という名の虐待

 

ハーザー誌8月号に「信仰という名の虐待」という本を書いたパスカルというフランス人との対談記事が載っています。

今日の教会の牧師は、信徒を利用し、自分を教祖にしている。自分の教えと違うことを言うと信仰から落ちたというような表現をされ、教会でつるし上げられる。これは、「近親相姦」と同じように、幼いクリスチャンにとっては、大きな傷になる。虐待を受けた子供が親や大人や社会を信頼できなくなって萎縮してしまうように、信仰初期の時に、このような支配を受けたクリスチャンも、もうキリスト教に対して恐れを持ち、二度と教会に帰ることができなくなってしまう。というような内容でした。

私自身、2度、教会から理不尽な形で追い出された経験があるので分かりますが、教会を破壊し、そこから健全な自由さを奪うのは、牧師の野心です。牧師が教会成長に色めき立つと、信徒を一つのコマ、利用する対象としか見なくなります。教会成長学がはびこってから、私はほとんどの牧師が、「企業の社長」のようになり、自分の勢力拡大を目指すようになったと感じています。

また、「自分の」教会というのがいつも最優先されるので、真理などどうでもよく、組織の論理が聖書の論理に優先され、まるでオウムか何かのように暴走を始めます。牧師の言葉は神の言葉だと思え、などと平気で言うようになります。

私を追い出した教会(牧師はかなり有名)は、その後、カルト化しました。
一般信徒のリーダーが参加する「運営委員会」の席上で牧師に文句を言ったある男性会員に対して、牧師が、自分の脇にいる大学の柔道部に所属する若者に一言「つまみ出せ」と言いました。すると、柔道部の彼がその会員の両肩をうしろからかかえて、ずるずると廊下へひきずりだしたのです。

私がやめる前に、この牧師は、「私は思い切ったことをやろうと思っているんです」と言いましたが、そのとおり、なりふり構わずのことをやって、教会を目茶目茶にしました。心ある教会員は教会を去り、その後、教会の姿は一変しました。

「邪魔者」「サタン」と呼ばれた私たちが出た後は、この牧師はかねてからやりたかったことをやりはじめました。自分が訳した聖書を説教講壇で使うようになったのです。この翻訳は、とても翻訳と呼べるものではなく、マタイ5章の「心の貧しい者は幸いです。」を「むさぼらない者は幸いです。」と訳していました。私訳としてならば許されるでしょうが、これを本格的な翻訳聖書として、講壇説教のために用いることは到底できません。

かねてから、彼は、信徒訓練コースにおいて用いたのは自分が書いた本だけであり、徹底して自分の考えに染まることを望んでいたふしがありました。

つまり、彼は、キリスト教をやりたかったのではなく、「○○教」(○○はこの牧師の名)をやりたかったのです。

今日、このような教会は多いと思います。聖書をまっすぐに信じる人々は行く先々で疑われ、排除され、除名されます。

これらの教会の牧師は、イエスを十字架につけたパリサイ人と同じなのです。自分の宗教というものを作り上げてしまったので、神の御心を伝える聖書信仰の人々を毛嫌いし、追い出すのです。

教会に残るには、牧師と一緒になって、これらの聖書信仰の人々をいじめるしかない、というような極めて不健全な状況が生まれています。


 

 

2003年07月30日

 

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