クリスチャンカリキュラムの哲学

 

第2章「聖書講座」by R・J・ラッシュドゥーニー

学校のすべての学科に聖書信仰の原理が適用されない限り、クリスチャンスクールの聖書講座は失敗に終わるだろう。私は、過去20年間、強力なファンダメンタリスト信仰に立つ大学を訪問した結果、なぜ彼らが新正統主義や進化論に陥ったか理由がわかった。それは、彼らの授業が非聖書的だからだ。…たとえば、数学は、相対主義的な視点から教授されていた。授業は祈りから始まるのだが、授業内容は実質的に神を否定するものであった。科学の授業は、非人格と偶然が支配する宇宙を前提としていた。社会学や社会研究は、神の予定を否定し、その代わりに人間の予定を教えていた。心理学と人類学は、もともと神学の一分野であったが、もはやそのようなものとしては教えられず、ヒューマニズムの一分野と化していた。ただ授業の前に祈りをし、聖水を振り掛けるだけでは、ヒューマニズム的カリキュラムをキリスト教化することは不可能である。真のキリスト教的カリキュラムは、明確な聖書的前提に立たなければならないのである。

コーネリアス・ヴァン・ティルが言うように、聖書は、我々に、数学や古生物学、物理学、生物学その他の学問的事実を教えているのではなく、「あらゆる事実に関する真理」を教えているのである。聖書は、「すべての事実は、神によって創造され、支配されており、神の目的を実現するために存在する」と教えているのである。

聖書は、「すべての事実の意味と教育の目的」を教えているがゆえに、「すべての教育の基礎」である。ソロモンは、教育について2つの重要な事実を教えている。

主を恐れることは知識のはじめである。愚か者は知恵と指導を蔑む(箴言1・7)。
主を恐れることは知恵のはじめである。聖なるものについての知識は、悟りを生む(箴言9・10)。

(R. J. Rushdoony, The Philosophy of the Christian Curriculum, Ross House Books, Vallecito, Cal., 1985, p. 44.)



 

 

2003年04月22日

 

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