ノーマン・ガイスラー


セオノミーを「急進主義、反民主主義、擁護できない、反憲法的立場」と非難するノーマン・ガイスラーは、非常に多くの著書を持つキリスト教弁証論者である。

ガイスラー博士は、ノースカロライナ州シャーロットの南福音主義神学校の校長であり、同神学校の共同設立者である。博士は、トリニティー神学校及びダラス神学校でも教鞭を取ったことがある。

現在、彼は、神学と弁証論の教授であるが、学士号と修士号をホィートン大学で、神学博士号をウィリアム・ティンデール大学で、Ph.D. をロヨラ大学(シカゴ市)で取った。

もちろん、ロヨラ大学は、ローマ・カトリック、イエズス会の大学である。

そのため、彼のセオノミー批判は、自然法と人間の自由意志に基づいている。

ガイスラーは次のように言う

「神が自由な被造物に対して不可抗的力を行使することは、神の恵みと人間の尊厳に対する違反である。神は愛である。真の愛は、誰に対しても押し付けをしない。強制的な愛は、レイプであり、神は神聖なるレイピストではない!」

私も、神はレイピストではないとは思う。
私は、これまで一人も、無理やり洗礼を受けた成人を知らない。
みな、自ら進んでキリストを信じ、喜んで受けていた。

しかし、同時に、私は、神が、彼らの自由意志に任せ、結果のわからぬままに、伝道者を派遣し、彼(または彼女)に、伝道させた、とは考えない。

神は、結果をすでにご存知である。救いに至るか至らないかを神は永遠の昔からご存知である。いや、むしろ、神は永遠の昔から、誰を救うか、誰を滅ぼすかを決定された、と信じる。

なぜならば、神は絶対者である以上、この宇宙で起こるすべてのことについて主権者であり、常に能動的だからである。神が知らずに起こることはない。神の計画によらずに起こることはない。

もし、神の予期せぬことが起こるならば、その時点で神は神であることをやめる。

神は、予測不能なことによって狼狽するだろうか。神は新しい出来事によって驚かされるだろうか。

いや、神は誰にも影響されない自存者である。いかなるものも、神の予想を裏切ることもないし、また、神の決定外で起こることはない。影響される者は、相対者である。

この意味において、神の行動は、常に、「不可抗的」である。人間は、神の意志に抵抗することは絶対にできない。すべては、神の一方的、能動的な活動の結果として起こる。それゆえ、人間は常に、意識するとしないとにかかわらず、神の意志にしたがい、抵抗できないままにことを行っているのである。

人間が救いを選択するときに、「私はイエス・キリストを信じて救われた」というが、本当は、「神が私にイエス・キリストを信じる思いを与えてくださり、それゆえ私は信じることができた」ということなのである。

人間は、神の恵みなしに、信仰に入ることは絶対にできない。

救いは、神の一方的な働きである。

救いを人間の自由意志による、と考えるアルミニウス主義は、実質的にローマ・カトリックの信仰と同じである。

ローマ・カトリックは、人間の全的堕落を信じず、また、被造世界の全的堕落も信じないので、自然法を唱える。アルミニウス主義も同じである。

しかし、セオノミストのカルヴァン主義は、人間は神の恩寵がない限り、絶対に信仰に入れない、とし、また、自然は全的に堕落しているので、自然の法に頼れない、とする。

ガイスラー博士は、ロヨラ大学で博士号を取り、ローマ・カトリックの神学を福音的陣営の中に持ち込んでいる。その結果、カルヴァンが達成した様々な遺産が、様々な場所において破壊されている。

ノーマン・ガイスラーは、ビリー・グラハムとともに、ローマ・カトリックと福音的陣営との間のパイプ役であり、非聖書的なエキュメニズムを促進している。

 

 

2004年3月4日

 

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