創造契約は業の契約ではない?3



<スミス氏>

<ローマ人への手紙7章7〜12節>講解説教(抜粋)
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10節は、「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました」と訳されているが、ギリシャ語原文には「導く」という言葉はない。ここには訳者の解釈が入っている。これも、ウェストミンスター信仰告白の中に出て来る“行ないの契約”の考え方の基礎になっているものである。その戒めは「いのちに至る」ものであったが罪がそれを「死に至る」ものにしたという考え方、いわゆる“わざの契約”或いは“行ないの契約”の立証テキストとして改革派神学の中で使われてきたものである。もともと戒めはいのちを与える筈のものであったが、死を与えるものになった。それで、「アダムとエバは、神の命令を守ることによっていのちを得ることができる筈であった。しかし、命令を破ったので死が与えられた」という考え方が、この箇所とローマ人への手紙5章やガラテヤ人への手紙などに対する解釈から出て来て、「行ないの契約」という考えがウェストミンスター信仰告白や大教理問答に出て来るようになった。不従順が死に値したのと同様に、従順はいのちに値するという意味に理解されてきた。

しかし、既に話したように、アダムとエバは、命令を守ることによっていのちを得るわけではなかった。「最初から彼らはいのちの最高の状態に置かれていた」のである。エデンの園の中に住んでおり、神との親しい交わりの中にあった。いわゆる“行ないの契約”というものが最初にあったとすれば、アダムとエバはエデンの園の外にいるのでなければならない。そこで、命令が与えられ、その命令を守るなら、園の中に入ることが許されるという状態でなければならない。エデンの園の中に住むということは、いのちの最高の状態にあるということであり、神との親しい交わりを持つ状態であり、至聖所の中に神とともに住んでいるのである。それが出発点である。解釈するときに、その出発点を見落としてはならない。


<tomi>

エデンの園は、「いのちの最高の状態」ではない。
「いのちの最高の状態」は、「朽ちないものによって成り立つ御国」である。

パウロは、「朽ちるものは御国を相続できない」と言っている。それゆえ、この肉体の世界は過渡的であるということが分かるのである。

「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 」(1コリント15・50)

エデンの園は、過渡的な御国であった。神と人とがいかなる障害もなく、共住する場所であり、たしかに、これは「完全な世界」「至聖所」ではあったが、しかし、「最高の世界」「最終目的地」ではなかった。(*)

エデンの園は、やはり、試験場であった。

最高の世界はまだ先にあった。エデンの園は、「朽ちる園」であり、アダムのからだは「血肉のからだ」であった。

この過渡的なものは、永遠のものに変わる必要があった。そうしなければ「朽ちないものを相続でき」ないからだ。

人類そして、世界の最終目的は、「朽ちない世界」である。アダムはその世界を達成する使命を与えられていた。

アダムは神に完全服従することによって、「朽ちない世界」を相続できるはずだった。

アダムの行動は、彼から生まれるすべての人類と、人類に連なる自然全体を巻き込むもので、もしアダムが神の試練において成功していれば、アダムを先頭に人類と宇宙全体が永遠の状態に移行するはずだった。本来ならば、アダムがモーセの役割を果たし、彼の子孫全体を永遠の御国に連れて行くはずだった。(**)

しかし、アダムが失敗したため、イエスがこの務めを果たし、イエスに連なる人々を永遠の祝福の状態に連れていってくださった。




(*)
聖書は、この世界のいかなる場所も、「最終段階」「理想郷」として作られていない、と述べている。

この世界のすべては、「サタンとの決戦場」「忠実如何によって天国にも地獄にもなる地」である。

安息の地であり、「第二のエデンの園」である「カナンの地」でも、戦いがあった。イスラエル人は、たえず敵と戦わねばならなかった(士師記 3・31)。



(**)
イスラエル人は、「贖われ、御民となった後」、カナンに入植した。

神は、イスラエル人に対して「私はあなたがたの神である」と宣言され、イスラエル人について「あなたがたはわたしの民である」と言われた。

これは、神とアダムの関係と等しいので、カナンの地は、「第二のエデンの園」であることが分かる。

カナンの地が、依然として、戦いの場であり、発展すべき地であり、世界に影響を与えていくべき出発点であったことは、エデンも戦いの地であり、発展すべき地であり、世界に影響を与えていくべき出発点であることを示している。

エデンの園から地の四方に川が流れていたことは、エデンの祝福がアダムの開拓の働きによって全地に及ぶことを象徴している。

エゼキエルの神殿の下から川が流れ、それが世界を潤すというヴィジョンは、メシアの時代に、メシアからの祝福が世界を覆うことの預言である。

しかし、この祝福が、自動的に世界に及ぶのではなく、祝福を伝える人々が神の契約を守るかどうか、その忠実いかんによって、祝福の広がり方に差が出てくる。

それゆえ、「エデンの園」だから、もはや、その住人は律法によってテストされる必要はなく、それゆえ祝福と呪いもない、ということはいえない。

永遠の御国が来るまで、人間は律法の祝福とのろいの下にいて、自分のとった行動によって、祝福されもし、裁かれもするのだ。

 

 

2004年2月19日

 

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