創造契約は業の契約ではなかった?


スミスさんのメッセージ「業の契約1−2」までについてコメントします(再建主義MLを参照)。

(1)
スミスさんの、「創造契約が恵みの契約であり、アダムとエバは神の家族、花嫁、臣民として創造され、愛と恵みの中に創造された」というご意見に異論はありません。

しかし、恵みの中で創造されたから、すなわち、「テストを受ける立場にはない」とはいえません。

「神は恵みの中にアダムを創造した」ということと「神はアダムに永遠のいのちを獲得させる使命を与えた」ということは、対立概念ではありません。

たとえば、私たちも、自分の愛する生徒や子供、部下を訓練するときに、テストを課して、その結果によって賞罰を下すということはあります。

テストしたからと言って、私たちに恵みや愛はないということにはなりません。

今日の我々から推測することが不可能なほどに、アダムは完全な良心と道徳的力量を持っていたので、行ないによって永遠のいのちを得られる可能性は十分にあり、そのようなテストが、理不尽であるとか、過酷であると考えることはできません。

我々のように、生まれながらに罪の性質を受け継いでいる者にとって、100点を取ることは不可能ですが、完全無欠の被造物であったアダムにとっては十分に達成可能な目標だったと考えられます。それゆえ、そのようなテストを与えたことを、「恵みがない」「愛がない」と考えることはできません。

(2)
「いのちの木から取って食べてはならない」と記されていないからといって、「最初からいのちの木から取って食べることが許されていた」ことには必ずしもなりません。

エデンの園の二本の木は、「契約に伴う賞罰の象徴的表現」であると考えるほうが、契約の一貫性という意味において、無理がありません。

イスラエルは、申命記において、「これを守れば祝福を、破れば呪いを」と言われました。

これと同じように、創造契約において、「神の命令を守ればいのちの木から取って食べることができ、破れば食べられない」と宣言されていたと考えることができます。

(3)
聖書は、アダムとキリストを、「最初のアダム」と「最後のアダム」と呼び、並行関係においています。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」(ローマ5・12-15)

このようなアダムとキリストの並行的な描写は、アダムの使命と、キリストの使命が並行関係にあることをも示しています。

つまり、キリストが律法を完全に守ることによって永遠のいのちを獲得したという事実は、アダムにも同じ使命(すなわち、神の命令を守ることによって永遠のいのちを達成するという使命)が与えられていたということを暗示しています。

もしこのような関係がないとすれば、受肉の意義、つまり、キリストがわざわざ人間として女から生まれて、普通の人間と同じ状況に置かれたという意義が半減します。

(4)
イスラエルに与えられた恵みの契約は、ある意味で業の契約の要素を含んでいます。

つまり、イスラエルは、「これを破り、悔い改めなければ、あなたがたは滅亡する」と言われた。

「どんなに悪事を犯しても、恵みからもれることは絶対にない」とは言われていない。

聖書は、罪にも、許される罪と、許されない罪とがあると述べています。

「神の法そのものを拒絶する罪」「神の支配そのものを拒絶する罪」は許されない罪であり、その場合に救いや回復は一切与えられていません。

恵みの契約は、神の支配を認める市民に対して有効であり、神の支配を覆そうとする革命者に対しては無効です。

「ことさらに罪を犯し、自分を贖ってくれたキリストの血を汚れたものと見る」(ヘブル10・26-29)罪は、許されない罪です。

そういう意味において、新約時代のクリスチャンが属する恵みの契約においても、「業を問われている」わけで、いわゆる「業の契約」も「恵みの契約」も、どちらも「永遠のいのちの獲得に関わるテスト」の要素が含まれている。

それゆえ、スミスさんの、「アダムとエバは神の花嫁、神の民として創造されたのだから、業(功績)によって試されているわけでも、永遠のいのちを受けられるか見られていたわけでもない」という理屈は間違いです。


(5)
アダム契約(創造契約)をはじめとして、すべての契約は、責任を前提としています。
人間は、ロボットではなく、人格を与えられていますので、すべての行動に責任が伴います。

それゆえ、「契約はあったが、責任はない」ということはありえず、神が人間との間に契約を結んだ、ということは、「責任を持たせた」ということを意味します。

責任の結果は、「祝福と呪い」という形で具体化されます。

もしスミスさんの議論「業によって永遠のいのちを得るように命令されていなかった」というなら、「それでは、その契約の責任はどういう形で現れるのか?」という疑問が生じます。

創世記の記事を読めば、明らかに、神は、人間の前に「生か死か」という2つの道を用意しておられたことは明らかです。つまり、この契約の責任は、「永遠のいのちを得るか、それとも、永遠の死に落ちるか」という形として具体化されるはずだった。

いわゆる「恵みの契約」において、我々の責任はキリストが身代わりに果たしてくださった。つまり、キリストは、その完全な義によって、永遠のいのちを得、また、その犠牲によって、永遠の死を身に受けてくださった。我々は、キリストに信仰によってつながることによって、この2つの責任を果たしたとみなされる。

しかし、原初のアダムには、贖いはなく、本人が剥き身で、神の前に出て、責任を負わされていたのですから、いわば、キリストと同じ立場にいたことになります。

となれば、当然のことながら、アダムが負っていた責任の結果は、「永遠のいのちか、永遠の死かどちらか」であったはず。

いかがでしょうか。

 

 

2004年2月19日

 

 ホーム

ツイート

 



millnm@path.ne.jp