超自然を捨象するキリスト教はキリスト教ではない


>ただ、ブルトマンなどの神学者の考えは、キリスト教の匂い
>が立ち込めていても、私などにはわかりやすいような気がし
>ました。ブルトマンはクリスチャンであっても、
>イエスの復活を歴史的事実とは見ていないようですね。

復活はキリスト教の中心教義ですので、これを認めないということになると、はたしてそれはキリスト教なのかどうか、疑問があります。

十字架は、我々の罪の責任をキリストが身代わりに負ってくださったことを示し、復活は、その罪の代価を完済したことを表します。

たとえば、こういう例はどうでしょうか。

共産圏の国では、ドルショップというのがあって、ドルを持つ外国人でなければものを買えないので、外国人に頼んで買ってもらうということがあります。

ある人が友人にお金を渡して、自分の代わりに日本製のラジカセを買うように頼んだとします。
その外国人が店の中に入ったがいつまでたっても出てこなければ、本当にお金が支払われて、商品を手に入れたかどうか分かりません。

私たちが犯した罪は、人の命以外では償うことができません。

キリストは、私たちの身代わりに死んでその罪責をすべて支払ってくださいました。

その証拠が、復活です。

もし、キリストが墓に入ったまま出てこなければ、私たちは、自分の罪の責任が本当に神の前で消滅し、完全に赦されたかどうか不明です。

今のたとえの外国人がラジカセを手に店から出てきたときに、依頼者は「代価を払って商品を手に入れた」ということを確認できるように、私たちも、キリストがよみがえって、墓から出てきたことによって、「私たちの罪は完全に赦されて、永遠のいのちを獲得できた」と確信できます。

それゆえ、復活は歴史的事実でなければ、まったく意味はないといえます。


>また日本では東京工大の八木誠一氏の本など、とても良いと思いました。
>こういった学問的な本は、あまり教会的とはいえない面もあると思います。
>しかし、教会に所属する信徒も、大学や図書館でこういった思想に接するわけで、
>やはり影響を受けると思います。
>信徒にとっては、それが大きな躓きになる場合もあろうかと思いますが、クリスチャン
>の方々はそれをどうやってクリアしておられるのでしょうか?

残念ながら、私は、ブルトマンや八木氏には賛成できないのです。

なぜならば、まず、「奇蹟を自然的な出来事と解釈するならば、信仰は不要だから」です。

たとえば、誰かが、「鳥が空を飛んでいたよ」と言ったとします。その言葉を認めるには、信仰はいりません。

しかし、「豚が空を飛んでいた」と言う人の言葉を認めるには、信仰がいります。

なぜならば、豚は自力で空を飛べないからです。

神が我々に求めておられるのは、理性で認められること(自然現象)を認めるのではなく、理性で認められないこと(超自然現象)を認めることです。

どうして、神がそのようなことを認めることを人間に求めるかと言えば、それは、神と人間との関係は、超越的絶対的主権者と非超越的非絶対的従属者の関係だからです。

つまり、人間は、「あなたの仰ることなら、何でも信じます。」と告白しない限り、神を主権者として認めたことにならないのです。

自分の理性や判断力、常識を基準にして、神を「選ぶ」限り、その人は、神を主権者としていませんし、自分を主権者としています。

このような人は、聖書の他の個所も、「自分の理性や判断力、常識」によって、選択します。

たとえば、彼がタイムマシンに乗って、創世記3章のエデンの園の中に置かれたとします。

彼は、「園の中央にある木の実だけは取って食べてはならない」という戒めを神から受けます。

しかし、彼は、自分の理性で判断してもよい、と考えているので、「見るにうるわしく、食べるのによさそうだ」という理由で、それを食べます。

結果として、彼は、エバと同じようにエデンから追放されて、神との交わりを絶たれ、罪人となります。

このように、聖書を合理的に理解するキリスト教は、実は、神を主権者として受け入れず、悔い改めることを求めない偽キリスト教なのです。

ブルトマンや八木誠一が主張する、絶対服従を説かないキリスト教をキリスト教と認めることはできません。

聖書は神の御言葉であり、それに対して疑いを一切抱いてはならず、それを前提として受け取らねばならない、と説かないキリスト教をキリスト教と認めることはできないのです。

 

 

2004年1月22日

 

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