救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する23

 


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さらに、富井さまとの議論の中で、律法の二重の効用について考える中で、次の疑問を持ちました。

 3.律法は、キリストの十字架の死によって、「刑罰法」として
   の役割を終えたが、「規範法」としては、今もなお、
   キリスト教徒を支配している。
   しかし、再建主義者は、将来キリスト教徒が議会の多数派
   を掌握した場合に、「規範法」である律法をベースとして、
   死刑を含む刑法を制定しようと計画している。
   そうなった場合、キリストの十字架の死と、律法に基づく
   死刑とは、矛盾しないのか。

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 キリストの十字架の死とは、旧約律法における祭壇で捧げられた罪のいけにえの「本体」です。
 罪のいけにえとは、契約の構成員が罪を犯した場合に、神の赦しを受けるために捧げられるものでした。
 しかし、罪の赦しは、いけにえの儀式を行ない、神との和解が成立するだけではなく、実際に罪の被害を受けた隣人に対する賠償が命じられていました。

 ザアカイは、悔い改めて主を信じましたが、それだけではなく、これまで自分の罪の被害者に賠償をすると申し出ました。それに対してイエスは赦しと回復を宣言されました。

「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」(ルカ19:8-9)(ルカ19:8-9)

 罪人は、神との和解に続いて、聖書の規定に従って、窃盗、姦淫、偽証などについて、償いをしなければならなかったのです。

 さて、死刑以外については、賠償は、相応の金額で決着をつけることができました。
 たとえば、相手の「目」を傷つけたら、自分の目を傷つけられても仕方ありませんでしたが、被害者がそれを要求せず、金銭的な解決をつけることができました。
 しかし、計画的殺人(または、故意の殺人)については、不可能で、必ず死刑にしなければなりませんでした。

 計画的殺人でない場合、不注意によるものとか、怠慢によるものの場合、償い金でケリをつけられました。

「しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。」(出エジプト記21・29-30)

 しかし、計画的殺人の場合は、贖い金は通用しませんでした。

「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト記21・12-14)

「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。…あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。」(民数記35・30-31)

 新約時代における死刑適用の可能性は、ここにあります。

 

 

2004年1月9日

 

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