今の伝道では日本人はクリスチャンにならない


<fms様>

富井先生

いつも、ピリッとしたキレの良いお答え、ありがとうございます。富井先生の「思考方法」が凄い!と、いつも思います。

わが国では、公的権力によるキリスト教迫害の時代はとっくに去っているにも関わらず、キリスト教徒の数は相変わらず1%未満・・・。

自由主義神学に「侵食」された神学校の話と関連しますが、教会にパン(神の言葉)を求めに来た求道者に対して、蛇か石を与えるようなことになっている場合もあるのかもしれませんね。(神学校も。)

日本基督教団は、自由主義系の人が特に多いように思います。

しかし、その中にあって、「連合長老会」は旧日本基督教会の流れを引くグループですね。

昔、連合長老会の牧師が、「賛美歌はこれで良いのか!」と機関紙上で叫び、日本のなまくらな、といいますか、穏和主義的な賛美歌の傾向を憂いておられました。

そしてオーストラリアなどの賛美歌を挙げていましたが、
その歌詞は「主は、王であられる!人々よ、御前にひれ伏せ!」といった威厳に満ちた内容だったと記憶しています。(引用は、記憶からのもので、逐語的に文字通りのものではありません。)

fms

<tomi>

メールありがとうございました。

ずっと1%未満だったというのは、結局、日本人のニーズに合わないことをやってきたからだと思います。

私は、日本人は知的レベルとしても、様々な面において、世界で最高水準の資質を持っていると思います。これは、戦後の驚異的な経済発展をみても明らかであり、アジアでこれだけ多くの学問的評価を受けている国は他にはないでしょう。ザビエルやフロイス、ニコライなどが口をそろえて言うのは、日本人の知的水準の高さでした。

仕事で、バルト3国、モスクワ、黒海、カスピ海、シルクロード沿いの都市を訪問したことがありますが、西から東へ移動するにつれて文化が徐々に東洋的になっていくのが興味深かった。

バルト3国では、茶碗の形はいわゆるティーカップですが、モスクワでは、ティーカップと日本の湯呑の中間のような形で、ウズベキスタンあたりでは、完全に我々の湯呑と同じ形になり、緑茶を飲みます。東に進むと生活水準も低くなり、西洋人が、「東進するにつれて文化は後退する」という印象を持っているのも無理がないように思えました。

バルト3国はヨーロッパに最も近くて、文化もモスクワよりも洗練されています。彼らは、ロシア人を半分アジアの血が混じった遅れた民族として軽蔑していました(とくにエストニア人は、ロシア人やアジア人に対する人種蔑視をもろに態度に出します。恐らく弱小国のゆえに国土を蹂躙されてきた劣等感の裏返しなのでしょうか)。

この法則を発展させると、ユーラシア大陸の東のはてには最も遅れた国があるだろう、ということになるのでしょうが、そうではない。そういった意味で、日本は私にとって非常に奇異な国に思えました。

今から20年前のことですから、中国もまだガチガチの共産国で、上海も、建設ブームのはしりでしたが、今のような超高層ビルもなく、街路にはオマルが日干しにしてさらされ、子供は道端でウンコをするし、看板には「痰を吐くな」とか書いてあって、バスの支柱につかまるのがはばかられました。

外国人が、日本に来て不思議な印象を持つのは当然と思います。東の果てに突如として最先端の技術を持ち、衛生観念の発達した文明国が存在する。

戦後の経済発展とかよく言われますが、明治維新から30年も経たないうちに、日本の驚異的な発展は、世界の注目の的になり、「黄禍論」が唱えられだした。19世紀のオランダのクリスチャン宰相アブラハム・カイパーは、著書『カルビニズム』で「日本の驚異的な発展」について触れています。

明治維新において欧米文化を取り入れてから日本が文明国の仲間入りをした、というのではなく、すでに江戸時代において、日本人は風呂好きで、江戸の町並みは欧米人が驚嘆するほど清潔であったそうです。

このような日本人の資質を見て、ザビエルらは、「キリスト教に相応しい民族」と評価したのですが、残念ながら、カトリックの意図は伝道だけではなく、ローマ教会の覇権拡大にあったため、日本の政府は侵略と判断し、禁教令をしきました。

私の持論は、日本人には、その知的レベルに応じた、「思想的」伝道をすべきだ、ということにあります。「癒し」とか「奇蹟」、「ダンス」など、表層的なものではなく、「ものの考え方」そのものを根底から変え、首尾一貫した世界観を教えることだと思います。

そうすれば、大衆レベルの伝道は遅れるでしょうが、知識人が変わります。大衆は知識人を真似るので、いずれ大衆の常識が変わっていきます。

しかし、残念なことに、これまでの伝道は、知識人を変えなかった。知識人に入ったのは、自由主義神学であり、知的な関心のある人々は、実際にはキリスト教ではないものに染まり、それによって、実質的に知識人はキリスト教化されなかった。

戦後の福音的な教団は、別のミスを犯した。大衆伝道を目指した宣教師たちは、「日本人には難しい教理を教えるのではなく、単純な例話で埋められたメッセージでよい」という愚民政策を取ってきた。

世界一評価の厳しい消費者である日本人がこのような、ごまかしのキリスト教には惹かれなかった。

日本人は小さい頃から、塾に通い、高い水準のものにキャッチアップしようとする向上心があります。そのような民族に対して、いつもABCレベルのことしか教えない教会がどうして発展するでしょうか。

伝道の失敗は、「世界観」の欠如でした。今日、世界観を教えることのできる教師や牧師がどれだけいるでしょうか。

人間は、世界を首尾一貫して解釈できる柱を身につければ非常に強いものです。しかし、柱を身につけなければ、対抗思想の影響で常に確信がゆれ動きます。とくに進化論の影響は強烈でした。

キリスト教は進化論と四つに取り組まず、折衷的なものしか提供してこなかったので、日本人を筋金入りのクリスチャンにできなかった。

自由主義神学も、ディスペンセーショナリズムも、日本人を変えることなど絶対にできません。

このような中途半端な思想を植え付けても、ホンモノを見抜く力がある民族を変えることはできません。

 

 

2004年3月8日

 

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