クリスチャンカリキュラムの哲学 第4部 第2章「生徒指導」

 


by R・J・ラッシュドゥーニー

(子供が非行に走った場合)親が最もよく行う言い訳は、「これは、先生の問題です。先生が私の子供を理解してくれないからこうなったのです」というようなものである。これらの発言はしっかりと取り扱うべきである。第一、完璧な先生などいない。子供を扱う上で完璧に振る舞うことのできる先生などいない。これは的を外した議論である。先生がどのような人であろうと、生徒は、教室において従順で責任ある振る舞いをする義務があるのだ。そして、親は、このことを自分の子供に要求しなければならない。第二、先生の義務は、子供を「理解する」ことにではなく、子供を「教える」ことにある。筆者個人について言えば、私のことを理解してくれた先生はほとんどいなかったし、これは、ときどき大変つらい体験であった。しかし、彼らは私を「教えて」くれたし、私はそれによって利益を得たのである。

さらに、子供を「守る」ということと、「助ける」ということは別物である。これは、父兄にしっかりと(しかし、優しく)伝える必要がある。子供を懲らしめることが、もっとも子供を守ることになる場合がよくあるのだ。周りの世界を子供たちに従わせるのではなく、子供たちを神の規範に従わせるほうが、もっとも彼らを助けることになるのだ。子供の罪を聖書的に取り扱わないと、学校も、子供本人も、両親もみな苦しむことになる。非常にすぐれた両親から生まれた、ある非常に高い知能指数を持つ若者が、共働きの妻の稼ぎを当てにして最低限の生活をしている。彼は成績が悪くて大学を退学した。キリスト教界において高い地位にあった両親は、息子を頑固に守り、けっして彼の真実の姿を見ようとしなかった。クリスチャンスクールの先生もほとんど同様の対応をした。あえて真実と向き合おうとした人は、校長や牧師の支持を受けられなかった。その結果、生活は荒廃した。両親は苦しみ、教師たちは長年にわたって彼に苦しめられた。これは、子供の罪が、両親や教師、校長、牧師の対応によってさらに悪化した事例である。「彼ら全員が」主に対して、そして、彼のわがままな振る舞いによって学習を妨害された他の生徒たちに対して罪を犯したのだ。「罪を罪として扱わない人は、罪を犯しているのだ。」もし我々が罪を許容し、それを「活動過多」などと呼ぶならば、我々は罪を犯しているのだ。子供の罪を許容することによって、学校のスタッフに罪を犯す機会を与えてはならない。

罪人が祝福されるのではなく、忠実な人が祝福されるのである。人間が堕落し、悲惨に陥ったのは、アダムが罪を犯したからである。罪は我々の基本的な問題である。クリスチャンスクールは、罪の問題を扱う上で、自ら非行者になってはならない。

学生の罪を正しく扱うことに失敗する最も大きな理由は、第一に、経済的損失への恐れである。たしかに、罪を取り扱ったために経済的損失をこうむることはあるだろう。しかし、問題は何を優先すべきかということにあるのだ。どちらが重要なのか。経済的な見返りか、それとも、主の祝福と学校の健全化か。罪を許容する学校は、結局のところ、経済的に行き詰まることになるのだ。

第二、父兄への恐れである。父兄が社会的有力者である場合に、この問題が起こることが多い。もし我々がこのような恐れに「支配」されるならば、我々は、学校において、これらの人々に支配されることになるのである。その結果、甘やかされた子供たちと父兄たちに対して権威を失うのである。

第三、道徳的な臆病である。困難な問題への対処には、通常、非常な苦痛が伴うものである。しかし、もし臆病風を吹かせて、正しく対処できなければ、さらなる苦痛が待ち受けているのである。

罪は人間の基本的な問題である。誰でも、自分自身のうちにある罪と、生活のあらゆる領域にある罪から逃れることはできない。クリスチャンスクールは、いつも、罪に対処する準備ができていなければならないのである。

 

 

2003年04月23日

 

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