結果によって手段を正当化してはならない

 



ストレイ・シープ様

アップを感謝します。

(1)
たしかにおかしいと感じます。

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アメリカが今回の件で、国連の法規や国際協力ではなく単独行動的に動いたのは事実です。ですから、法規の中で動く国連を「警察」になぞらえ、そしてそれを無視する米国を「ヤクザ」と呼ぶのは、ある意味当たっていると思います。けれども、フセイン圧政をアメリカが攻撃したので、神の憐れみの中で福音宣教への戸が開かれたのです。これまでの日本が、福音宣教が許された時期を考えますと、ペリーの黒船来航、と、アメリカによる原爆がそのきっかけでした。この二つの出来事を神が用いられなかったら、今、私を含めて多くのクリスチャンはクリスチャンになっていなかった、とも言えるのです。良い悪いを議論するまえに、初心に戻って、主がイラクに福音の戸を開いてくださったことを素直に喜ぶべきでしょう。
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たしかに、アメリカは、世界の帝国主義的覇権争いに加わり、特に、中枢部に膨張主義者が食い込んだ20世紀初頭以来、太平洋の覇権を求めるようになっています。セオドア・ルーズベルトは「太平洋の覇者になることを望む」とはっきりと述べています。

イギリスといっしょになって、中国の利権に深く関わっていたアメリカは、新興勢力の日本が日露戦争に勝って中国にますます深く関わるようになると、日本をライバルとみなすようになりました。

太平洋戦争は、この中国と太平洋に関する利害関係から起こった争いであり、それゆえ、「正義と不義の戦い」というようなものではありません。

どちらも「不義」なのです。

聖書で、ヤコブは、次のように述べています。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4・1-3)

防衛戦争以外の戦争の原因は、「不義の欲望」なのです。

ですから、防衛戦争ではなかったイラク戦争を肯定することは、「平和を作る」(マタイ5・9)ために召されているクリスチャンとして絶対にしてはならないことです。

クリスチャンは、この戦争を否定しこそすれ、けっして肯定したり喜んだりしてはなりません。結果としてどのようなよいことがあったとしても、アメリカのこのような政策を支持することは、罪以外の何物でもありません。

私は、神が、アメリカの野心を用いて、結果的に福音の道を備えられたと認めます。

アメリカがこれまで叩いてきた相手は、クリスチャンや市民を迫害する悪魔的な政権でした。

もしアメリカの参戦がなく、ヒトラーがあのまま野放しにされていれば、ヨーロッパは彼に占領され、無数の人々の虐殺が続いたことでしょう。

日本があのまま軍国主義を続けて、大陸への侵略を続けていれば、無数の人々の血が流されつづけたことでしょう。

ペリーが来なければ、福音は日本に入らず、鎖国時代が続いてキリシタンへの迫害は続いたことでしょう。

それゆえ、これらの戦争において、アメリカは神の裁きとして、また、福音の道を広げるために用いられたと考えることができます。

しかし、それによって、アメリカの膨張主義を正当化することはできません。

このディスペンセーショナリズムの先生が犯している間違いとは、「結果がいいのだから、手段は正当化してよい」と考えていることです。

これと同じ理屈をネオコンのウォルフォヴィッツが述べています。

(2)
聖書において、イスラエルが契約違反をした際に、神はカルデヤ人(バビロン)を起こして、彼らの侵略欲を用いて、イスラエルを罰し、捕囚として連行しました。

しかし、神は、けっしてカルデヤ人の行動を認めておられたわけではなく、カルデヤ人への裁きを宣告しておられます。

「バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように。」(エレミヤ51・49)

「えっ?神がカルデヤ人を用いてイスラエルを滅ぼしたのに、なぜそのカルデヤ人に報復されるのか?」と疑問が起きるかもしれません。

神は、「罪人の罪を利用される」のです。

神は、罪人を誘惑して罪を犯させるのではなく、罪人の心の内側から自発的に起こった罪の欲望が実現するのを止めないという方法を用いて、ある人を罰することがあるということです。

ある国が罪を犯しておらず、潔白である場合に、神は、他の国の侵略の欲望が実現しないように、様々な手段でそれを抑えることをされますが、その国が堕落して悔い改めを何度も何度も拒む場合には、他の国の侵略欲を放置して攻め込むことを許されることがあるのです。

しかし、神に許されたからといって、その国の侵略行動が罪であることには変わらないのですから、神は、その侵略を断罪し、裁きを行われます。

それゆえ、アメリカが裁きの器として用いられたからといって、アメリカに賛同することはできません。

バビロンがイスラエルの裁きのために用いられたからといって、バビロンは正しかったと言えないのと同じです。

この区別をきちんとしないと、「相手が独裁政権で民を圧迫しているならば、そこに侵略して政権を転覆させ、民を解放することは許される」というネオコンの理屈が正しいということになってしまいます。

ベトナム戦争において、アメリカは「アジアの共産化を防ぐ」という大義名分がありましたが、結局、この戦争のために、アメリカ社会は精神的に大きなダメージを受けました。ベトナム戦争は、アメリカの心の傷になりました。

イラク戦争もこのような大きな傷になる恐れが十分にあります。

(3)
では、クリスチャンは、防衛戦争以外のいかなる戦争も拒否しなければならないのか、という人がいるかもしれません。

私は、その国が自国民や他国民に対して著しい悪を行ない、虐殺などを行っている場合には、それを国際社会が放置することを罪と考えます。

たとえば、ヒトラーがユダヤ人を大量虐殺しているのを知っていながら、ヒトラーを放置したのは、罪です。

これは、レビ記が禁止している「血の傍らに無為無策で立つ罪」であり、悪がはびこるのを放置することによって、共犯者になることを意味します。

国際社会は、このような悪い国を倒さねばなりません。

今回フセインがヒトラーのような人間であったかどうかは議論があるかもしれません。

しかし、自国民に対して圧制をしき、大量の人々を虐殺したことは事実なのですから、当然のことながら、排除されてしかるべき人間です。

じゃあ、アメリカを批判できないではないか、と言われてしまいそうですが、私はそうは思わないのです。

なぜならば、アメリカが戦争の大義名分について取り出したのは、「大量破壊兵器によってアメリカが脅かされている」ということだったからです。

しかし、戦後、大量破壊兵器は見つからず、戦前には、それを国連で説明するアメリカ代表団は、十分に人々を説得できませんでした。

それは、「アメリカの戦争開始の動機は別のところにある」からでした。

ブッシュ大統領を動かしたネオコンの人々は、「単独行動主義に基づき、人々を説得できなくても、アメリカの圧倒的な力で侵略をごり押ししてよい」とはっきりと宣言していたのです。また、ネオコンのリチャード・パールは、「イラク戦争は、国際法違反だった」とはっきりと述べています。

これは、この戦争が、明らかな侵略戦争であったことを裏付けています。

結論

クリスチャンは、このような侵略戦争に賛成してはなりません。結果がどのようによくても、それによって手段を正当化してはなりません。結果だけを先に見て「喜ぶ」こともしてはなりません。

そうしないと、「朝鮮併合によって、朝鮮には鉄道が敷設され、近代化が進んだのだから、日本の対朝鮮政策は肯定されるべきだ」という理屈を認めなければならなくなります。

このような考え方は、世界を帝国主義の時代に逆行させるものであり、地の塩として、「侵略」を防止すべきクリスチャンの言うべき言葉ではありません。

 

 

2004年1月1日

 

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