称名の回復

 

今日、クリスチャンの間において忘れられている重要なことの一つに称名がある。

聖書において、契約に属することと御名を唱えることとは、不可分の関係にある。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」 (第2テモテ2・19)

「ご自身に属する者」は、「主の御名を呼ぶ者」である。

すなわち、信仰によるバプテスマを受けてキリストに属する者となった人々(=クリスチャン)は、「主の御名を呼ぶ者」である。

彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。(使徒9・14)

それに対して、異邦人(新約においてはノンクリスチャン)は、「御名を呼ばない」者である。

あなたを知らない諸国の民の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。… (エレミヤ10・25)

このように、契約のメンバーシップと、「御名を呼ぶこと」との深いつながりは今日軽視されているが、非常に重要なテーマである。

我々が商品を買ってその所有者になると、自分の名前を書き込むように、神も、我々が信仰に入り、神の所有となると、我々にご自身の御名を付けられる。

…彼らの額には神の名がついている。(黙示録22・4)

そして彼らは、…ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。(黙示録9・4)


我々の額には、父なる神の御名とキリストの御名が記されている。

…その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。 (黙示録14・1)

御名を呼ぶことは、神を自らの所有者、主権者として認め、あがめることであり、他の神々の名を呼ぶことは、偶像礼拝である。

あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。…そこで、彼らは…朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」 …預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、ヤーウェよ。…」(1列王18・24-36)

礼拝では、御名を呼ばなければならない。

…私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならない… (1列王8・43)

聖四文字(ヤーウェ)は、神の永遠の呼び名である。

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ヤーウェ…。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。(出エジプト記3・15)


イエスご自身は、しばしば「エゴー・エイミ(我はある)」という御名を口にされた。

我々は、神を主としてあがめ、従うがゆえに、聖書に記されている数々の御名を呼ばなければならない。

真に神をあがめ、助けを求めるがゆえに神の御名を口にすることは、力である。

名を呼ぶことは、その名を持つ存在を呼び出し、利用すること(良い意味でも悪い意味でも)である。

イエスは、悪霊を追い出す時に「おまえの名は何か?」と尋ねておられる(マルコ5・9)。

「神をあがめ、御助けを求める者は、神の御名を知らねばならない。ヤコブが彼と格闘した力ある者の名を知ろうとした(創世記32・29)のは、まさにこのためである。…ヤーウェの御名を称えつつ、誓いを立て(1 S. 20:42; Lv. 19:12)、呪い(2 K. 2:24)、祝福する(2 S. 6:18)時に、我々は、ヤーウェが臨在され、注意を向けられ、そして、積極的に介入されることを期待できる。…このような御名の用例は、旧約聖書全体を通じて存在する。」(ed. G. Kittel, Theological Wordbook of NT, Eerdman, vol.5, p.255)


第三戒「御名をみだりに唱えてはならない」は、神の御名を自分の利己的な動機のために利用することを禁じている。異教において、神々の御名を称えることによってその力を引き出すことが行われていた。聖書において、このような魔術的な称名は禁止されている。

「祭司による祝福は、宗教の歴史において、魔術的な思想に支配されていたが、旧約聖書において、このような要素は称名行為から徹底して排除されている。」(Ibid.)


ユダヤ人は、聖四文字を称えることをあまりにも恐れるあまり、それをどのように発音するか忘れてしまった。

これは、行き過ぎである。ユダヤ人が、聖四文字をアドナイと言い換えたように、我々の聖書も、「ヤーウェ」を「主」と言い換えているが、これは、聖書に対する人間的な改ざんである。

御名が称えられることがなくなることは、力を喪失することである。

正しい動機で御名が称えられる時に、我々は驚くべき臨在と力を体験できるのである。

称名の回復は、聖書的宗教の回復において中心的な位置をしめていると考えるのである。


 

 

2003年05月23日

 

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