創造契約は業の契約ではない?5


<スミス氏>

キリストに対する従順が法的な功績ではなく、愛に愛をもって応えるものであるのと同様に、アダムとエバは、神に対する愛の表現として従順をもって神のいつくしみに応えるよう命じられたのである。服従こそが、神の御子、アダム、そして天の御父との間のより深い交わりへの道であったのである。そして、それはクリスチャンである私たちの状態でもある。神が私たちに律法を与えてくださったのは、「いのちへ」の命令として与えてくださったのである。

<tomi>

(1)
キリストに対する従順、そして、モーセ律法に対する服従、アブラハムの神への従順などと、アダムの従順とを同一レベルに置くことはできない。

なぜならば、クリスチャンも、モーセも、アブラハムもみな、「贖われた者」であり、「贖われた者ではなかった」アダムと比較できないからである。

罪を犯していない時のアダムは、神との契約の当事者として立っていたのである。アダムの神礼拝は、「犠牲が不要な」礼拝である。なぜならば、彼はまだ罪を犯していなかったから。

しかし、罪を犯した後のアダムには犠牲が必要だった。神は、アダムのために動物を殺して、皮の衣をアダムに着せてくださった。

カインは、犠牲を捧げなかったために義とされなかったが、アベルは犠牲を捧げたので義とされた。

アブラハムも祭壇で犠牲を捧げた。モーセも同じである。

つまり、罪を犯す前の礼拝と、罪を犯して犠牲を必要とする状態になった人類の礼拝の形式はまったく異なるということである。

人間は、自分の義を神に対して示すことはできなくなった。誰か他の人の義を神に対して示す以外にはなくなったのだ。

人間は、みな、キリストを犠牲として神に捧げ、神の義の要求を満たす必要がある。十字架の死を示すことによって、我々は、神の御怒りを鎮めることができる。

神は、我々の罪の刑罰が十字架においてキリストの上に下ったのをご覧になって、我々への刑罰の不要を宣言される。

罪赦された我々にとって、律法への服従は、神の義の要求を満足させるためではなく、神の民、神の子として成長し、愛を深め、成長するためである。

しかし、罪を犯す前のアダムにとって律法への服従は、それだけではない。たしかに、スミス氏が言うように、神の民、神の子として成長し、愛を深め、成長するという目的もあったが、まず第一に、神の御前に契約の主として、自分の義を明らかにし、自分自身と、自分に連なる全人類と、そして、被造世界全体を完成するという目的があった。

(2)
アダムは、被造物の頭として創造され、「地を従えよ」との命令を受けた。これは、被造物の王として、神の創造の御業を完成するためであった。

アダムは神の御前に、全被造物を代表して立っていたのだ。アダムとエバは一体であり、アダムから生まれた人類もアダムと一体である。そして、自分がそこから取られた大地とも一体である。だから、アダムが堕落した時に、全人類、全被造物も堕落し、運命を共有した。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5・12)

キリストの「十字架によって天にあるものも、地にあるものも一切が和解され」(コロサイ1・20)るまで、被造世界全体が堕落の中にあり、神と敵対していた。

アダムの原初の使命は、被造物の頭として、キリストが行われたこと、つまり、「万物を完成して神に献上すること」だった。

それゆえ、アダムにとっての「服従」とは、単なる「神のいのちの中にある、愛や恵みや知識における自分の成長」のようなものではなかったのだ。

それは、神との一対一の契約において定められた、「被造物の代表者として万物を完成するという使命」の成就だった。


(3)
もし、アダムにこのような壮大なスケールの使命があったと考えなければ、「万物の完成」のために、キリストが受肉しなければならなくなってしまう。

キリストが受肉する必要があったのは、アダムがこの使命において失敗し、「万物の完成」を行う者が誰もいなくなったからである。

神は、宇宙の創造の時から、「人間を王、預言者、祭司に任命して、彼を通じて創造世界を完成する」ことを定めておられたのだ。

これが人間が創造された目的である。人間は、被造世界の完成者として、神から「地を従えよ」との命令を受けたのだ。

もしアダムがそれを実行していれば、キリストの受肉は不要だったはずだ。

だから、もしアダムに万物の完成の使命がなかったというならば、アダムが罪を犯さなかったとしても、最初からキリストはこの目的のために受肉しなければならなかったということになり、聖書の主張と矛盾する。

創造の契約(アダム契約)がもし業の契約ではなかったとしたら、アダムが罪を犯す犯さぬに関わらず、最初からキリストの受肉は予定されていた、ということになるのである。


まとめ:

アダムは、神との契約の中において、自分個人の成長だけではなく、人類の完成、被造世界全体の完成までも使命として与えられたのである。

彼は、自分の行いによって、それを達成することを期待されていた。つまり、業の契約である。

もしこのような「行ないへの期待」というものがなかったとしたら、神は最初からこの使命を達成させるために、キリストを受肉させる計画だったということになる。

しかし、聖書が教えているのは、アダムは「いのちの道」ではなく「死の道」に入り、この使命にとって不適格者になってしまった、そのため、キリストが代わりにそれを成就するために受肉された、ということである。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8・3)

ここにおいて、受肉がアダムの無能をカバーするためだった、と述べられている。アダムにおいて業の契約があったと仮定しなければ、この個所を矛盾なく解釈することは不可能である。

 

 

2004年2月20日

 

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