『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論 その8

 


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宗教右翼の神学は一枚岩ではない。そこには穏健な福音主義から極端な原理主義まで多様な教理と政治綱領の幅がある。しかしそうした中、近年とみに耳目を引いているのは、キリスト教徒のみが神から世界の「統治」を託されたと提唱する「統治の神学」(Dominion Theology)である。統治の神学という名は旧約聖書に由来する。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の烏、家畜、地の上を這う生き物をすべて統治せよ』」(創世記一・二八)。ごく普通の釈義では、この「従わせよ」「統治せよ」は、神が人類に自然の保全を委ねられたと解釈する。しかし統治の神学は、神が、キリスト教徒に全世界の支配を命じられたと理解する。万物の創造者たる神は人間を神の代理者として造り、かれらに地上を統治させようとされた。ところが人間は誘惑にあってサタンに統治権を纂奪された。教会はサタンから地上の統治を奪還するために設けられた神の制度である。それゆえ教会はキリストの再臨に備えて、地上のすべてを教会の統治下に収めねばならない。立法、行政、司法といった社会的機関、経済はもとより娯楽産業といった公共文化の一切も含めて、それらを悪魔の手から奪回して清めねばならない。それが完了したとき、キリストは再臨されるにちがいない。

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「ごく普通の釈義では、この「従わせよ」「統治せよ」は、神が人類に自然の保全を委ねられたと解釈する。しかし統治の神学は、神が、キリスト教徒に全世界の支配を命じられたと理解する。」

(1)「全世界の支配」を命じたと解釈するのは、統治の神学だけではない

「ごく普通の釈義」が何を指しているのか不明である。

たしかに、統治神学を批判するディスペンセーショナリストの中には、「ここで従わせよと言われている対象は、『海の魚、空の烏、家畜、地の上を這う生き物』だけであって、人間の社会、制度、生活全体は含まれていない」と言う人々がいるが。

「神が、人間に全世界の支配を命じられたと理解する」のは、何も「統治の神学」に限らない。伝統的な改革派神学は、この個所を「文化命令」と呼んで、「人間社会を含めた万物の統治」を教えている。

たとえば、コーネリアス・ヴァン・ティルは統治神学者ではないが、「聖書が教える神の御旨とは、世界のあらゆる領域を、キリスト礼拝(cultus)の場と変えることである」と述べている。

統治神学者ではないヘルマン・ドーイウェールトは、「もしイエス・キリストが霊的中心でなかったら、そして、もし彼の王国が世界歴史の究極的な目的でなかったとしたら、人類にとって、さらに、人間の文化的発展の全過程にとって、将来の希望はまったくないだろう。…文化が発展する過程の中で、人間の召命――つまり、彼が創造された時に神から与えられた文化的職務――は、自らの姿を顕現するのである」(著書『西洋思想の衰退期に』の『歴史の意味と歴史主義的世界人生観』の章の結論部)と語っている。

ヘンリー・ヴァン・ティルも統治神学者ではないが、「人々の宗教はその文化において表現されるので、クリスチャンはキリスト教的社会組織以外に満足できない」と述べている。

聖書本文を見ても、「地を従えよ」の「地」を表す原語「アレツ」は、「宇宙論的な『地』」または「世界」(Theological Wordbook of OT, Moody Press)であるから、地上に存在するすべてのものと考えることが可能である。

「動物だけではなく、人間のすべての営み、制度、文化をも統治せよ」と解釈することには、聖書的根拠がある。

(2)「キリスト教徒に」全世界の支配を命じられたと解釈することについて

神はアダムに「地を従えよ」と述べた、だから、「人間に」支配の任務が与えられたのであって、「キリスト教徒に」支配の任務が与えられたわけではない、という説に対してであるが、

神があらゆる人間(つまり、善人も悪人も)に支配を委ねたと考えることは間違いである。なぜならば、神は悪人で満ちた世界を洪水で滅ぼされたからである(創世記9章)。そして、善人ノアに再度「地を従えよ」との命令がくだった。これは、世界を治める正当な人間は、神に対して従順な者、善人である、ということを示している。

支配する権利のある人間は、「キリスト教徒」だけか、という疑問に対しては、「キリスト教徒」にもいろいろいるので、一概に「キリスト教徒か非キリスト教徒か」というわけ方はできない。

もしそのキリスト教徒が、聖書に記されている神の規範を破るように命令するならば、彼には支配権はない。イスラエルは、正式に神の民として選ばれたが、律法を破り、その罪を悔い改めなかったために、パレスチナの地から追い出された。つまり、支配権を奪われた。

我々は、「キリスト教徒」が世界を支配すべきだとは言わない。「柔和な者」が支配すべきだと考える。イエスは、「柔和な者は地を相続する」(マタイ5章)と言われた。

「柔和な者」とは、神の前に謙遜で従順な人のことである。世界は神の所有なのであるから、それを統治できる人間とは、神の御心を行う人以外ではない。しかし、神に従う人とは、第一に、キリストの主権を認めなければならないわけであるから、結局、この「柔和な者」とは、キリスト教徒である。

それゆえ、「キリスト教徒」であることは、支配者としての必要条件であって、十分条件ではないということになる。どんなに表面的に「キリスト教徒」と名乗っていても、その考え方や行動がキリストの命令、つまり、聖書の教えに従っていなければ、統治者として不適格である。

地を支配することができる正当な資格を持つのは、「聖書に忠実なキリスト教徒」だけである。

(3)非キリスト教徒を廃位させることは可能か?

「地を支配することができる正当な資格を持つのは、聖書に忠実なキリスト教徒である」というのであれば、現在支配者として世界の各地域を支配しているそうではない人々、つまり、イスラム教徒や仏教徒などは、正当な統治権を持たないので廃位させることができるか、ということになるが、そうではない。

神は、突然世界を一変させるようなことはなさらず、歴史の過程を通じて徐々に支配権を拡大することをよしとされている。そして、神は、この世界を維持するために、この歴史の途中過程において、「聖書的ではない統治者」にも支配の権限を「暫定的に」お与えになる。

この「暫定的」支配の中で、秩序が維持され、福音がその秩序の中で広まり、世界が徐々に変わるという方法を神は選ばれたのである。だから、キリスト教徒が「異教徒だから」という理由だけで、その地を侵略して、統治者を転覆することはできない。

パウロは、異教徒であるローマ人の支配権を尊重し、ローマの裁判制度に従った。彼は革命を違法と断罪し、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ13・1-2)と述べた。

(4)聖書は「服従を通しての支配」を教えている

ヨセフがエジプトの第2の位に昇りつめたのは、権威に服従したからである。ポティファルのことを「異教徒だから彼に反抗しても構わない」とは考えず、むしろ、自分の上に立てられた権威として尊敬し、服従した。その忠実な姿を見て、彼の上司は彼に高い権威を与えていった。

神が我々に望んでおられるのは、服従を通じての支配である。自分が今置かれている場所において、上司や権威に忠実に仕えることによって、徐々に(まれに、一足飛びに)昇進し、大きな権威を獲得することを望んでおられるのである。

(5)結論

神が最終的に目指しておられるのは、「聖書に従うキリスト教徒による世界支配」である。しかし、その方法は、革命や反抗によらない。キリスト教徒が聖書に従い、自分の上に立てられた権威に忠実に服従することによって、徐々に権威の階段を昇っていくことである。

世界は、「柔和(つまり謙遜)」でなければ、支配できないのである。

 

 

2003年12月11日

 

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