創造の契約は業の契約である


亀井様

アップ感謝します。
大変興味深いです。


ラッシュドゥーニーが、『組織神学』の中でこの問題を取り扱っており、業の契約など存在しないのだと述べていましたが、よく理解できませんでした。

(1)
ウェストミンスター信仰告白について言えば、私は、かなり違和感を感じます。

私は、「安息日は新約時代にも守らねばならない戒めである」とか、「聖餐を私的礼拝で行ってはならない」「司法律法は廃棄された」など、納得できません。

なぜならば、聖書はそのようなことをどこにおいても述べていないからです。

ウェストミンスターには、どうも、カトリック的な「制度的地方教会による仲介を過大視する」要素が残っているように思えて、「教会の外に救いはない」的な権威主義の要素を払拭できていないように思えるのです。

安息日については、もし安息日を今日でも守らなければならないとすれば、安息年をどうして守らないのか、という疑問が起きますし、聖餐については、旧約時代に、過越の祭りは家庭において行っていました。

私は、聖書には、たしかに教会の権威を尊重することもすすめているが、同時に、「二人または三人イエスの名によって集まったら、イエスもそこにおられる」というような制度的教会の枠外の活動も柔軟に認めていると思うのです。

司法律法については、パウロは、「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはならない(=労働者に賃金を払え)」という司法律法を引用しています。

(2)
しかし、業の契約については、ウェストミンスターが間違っているとは思えません。

人間は、アダムにおいて、「業による永遠のいのちの獲得」を命令されていたのは事実と思います。

ラッシュドゥーニーは、契約はすべて恵みによって与えられたもので、業の契約は恵みによらなかった、と見ることはできない、と言いますが、たしかに、人間は恵みの中で創造されていたので、業の契約そのものも恵みの一部と見ることはできると思います。

しかし、実際のところ、神は、アダムをテストされたのです。

原初、人間は、自分の業によって、永遠のいのちを獲得するように命令されており、徹底した服従を通して、いのちの木から取って食べることを命じられていた。

「人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。」(ウェストミンスター信仰告白7・2)

そして、その使命に失敗したために、神は恵みの契約を結ばれ、「第二のアダム」の功徳を通じて、永遠のいのちに到達する道を用意された。

「人間は自分の堕落によって、自らを、この契約によっては命を得られないものにしてしまったので、主は、普通に恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことをよしとされた。それによって、神は罪人に、命と救いを、イエス・キリストによって、価なしに提供し、彼らからは、救われるためにキリストへの信仰を要求し、そして命に定められたすべての人々が信じようとし、また信じることができるようにするために、聖霊を与える約束をされた。」(同7・3)

さらに、わたしが二重の契約を支持するのは、創世記第3章が、契約の構造に従っていると思われるからです。

エデンの園の中央の二本の木は、契約の第4条件「賞罰」を象徴しています。つまり、従えば命、従わなければ死という。

「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という命令は、契約の第3条件「規則」です。その規則に従えばいのちが、従わなければ呪いが下される。

つまり、この図式は、神とアダムが結んだ契約は、「宗主契約」であり、宗主は神、臣民はアダムであることを示している。

そして、最初は、アダムが『自力で』この契約を成就するように期待されていた。

恵みの契約が『キリストによって』契約を成就するのに対して、業の契約は『自力で』成就する。

この違いは確かに存在すると思うのです。


(3)
「則ち、律法は、[恵みと対立しない]恵みによる賜物であって、恵みの義務を詳述し、恵み─キリストにおける律法の成就─に導くものである。それこそは旧約律法の内的意味である。それはイスラエルとの契約にあてはまるだけではなく、創造の契約にもあてはまるとカルヴァンは考え、「業の契約(フォエドス・オペルム)」「自然契約(フォエドス・ナトゥラエ)」を決して説きませんでした。」

たしかに、モーセ律法は、「恵みの契約の中にいる『すでに救われた』民」に対して与えられたものであって、「救われるための条件」ではない。それゆえ「行為義認」は否定される。律法は、あくまでも「恵みの手段」であった。

しかし、イスラエルの民に与えられた律法がたとえ「恵みの手段」であったとしても、それを創造の契約にもあてはめることはできない。

なぜならば、イスラエルの民は「贖われた民」であるのに対して、堕落前のアダムは、「贖われる必要のない人間」だったからです。

彼は、まだ罪を犯しておらず、それゆえ、この段階で、贖いは不要です。

それゆえ、律法は、恵みの手段というよりは、「自力で永遠の義を獲得するための手段」だった。

(4)
堕落前のアダムも、イスラエルの民も、どちらも「恵みの中にいる人々」でした。

しかし、アダムには、神から「自力で」永遠のいのちを達成する使命が与えられており、それゆえ、彼との間に結ばれた契約は、「業の契約」である。

それに対して、イスラエルの民は自力で永遠のいのちを達成できないのであるから、彼らと結ばれた契約はキリストを通しての「恵みの契約」である。

いかがでしょうか。

 

 

2004年2月16日

 

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