フルプレテリズムの課題3


フルプレテリズムは、「セオノミストは、根拠とするマタイ5・17-20を誤解して適用している」と言う。

T師は、「セオノミストはマタイ5章17節によってその考え[キリスト教再建主義またはセオノミー]を支えています。しかし、フル・プレテリストは天地は過ぎ去ったと信じています。ですから、フル・プレテリストとしてこのセオノミーの考えをマタイ5章17節から支持することはできません。」と言われ、B師は、「彼らはマタイ5章17節を間違って適用しています。」と言われた。

はたして、マタイ5章17節からセオノミーを否定できるだろうか。

まず該当テキストを見よう。


「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、すべてのことが起こってしまわない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(新改訳:一部直訳・マタイ5・17-19)

ここで、「天地が滅びうせない限り」とあるが、フルプレテリストによれば、新約聖書の記者たちは、紀元70年の激変を「天地の滅亡」と表現していると主張する。

だから、天地が滅んでしまった以上、「律法の一点一画がすたれてもいい」ということになる。ここで、セオノミーの考え(旧約律法は新約時代においても有効)は否定されると。

私はこの意見に対してノーと言いたい。

(1)
まず、この個所における「天地が滅びない限り」というのは、「律法の有効期限」を表すためではなく、「キリストがそれを絶対的に成就し、また、確立する」ということを強調するための表現である。

なぜならば、もし、この個所が律法の有効期限を切るための表現であるならば、その後に続く山上の説教の道徳律にも有効期限が設定されたと考えなければならなくなるからだ。

「兄弟に向かって腹を立てる者はさばきを受ける」とか「情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫を犯した」という教えにも、時間が設定された、だから、紀元70年以降はこれらの戒めを守る必要はない、と結論すべきなのだろうか。

というのも、山上の説教は、イエスが第2のモーセとして、神の律法を、新しい山から与えたことを意味しているからだ。このイエスが与えた律法は、けっしてモーセ律法と矛盾するものではなく、むしろ、モーセ律法の真の意味を明らかにしたものであり、モーセ律法の退化とか縮小ではなく、逆に、その発展型である。「〜と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」というイエスの強調の仕方はこのことを明らかに表現している。

山上の説教を読めば、イエスが律法の廃棄ではなく、むしろ確立しようとしておられることに気付くはずだ。となれば、「天地が…」が期限設定のために追加された表現ではない、ということは明らかである。

(2)
しかも、イエスは、別の個所において、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24・35)と言われている。

仮に、天地滅亡(70年)以降、モーセ律法が廃棄されたとしても、山上の説教は生き残るということがここから分かる。

もちろん、山上の説教は、モーセ律法の発展型・確立型であるから、実質的に、モーセ律法は、廃棄されていないということになるのである。

パウロが述べたように、「信仰は律法を確立する」のである!

聖書のどこからも、「モーセ律法は廃棄された」などという主張を証明することはできないのである。

たしかに、ヘブル書7-10章において、モーセ律法が廃棄されたかのように受け取れる個所はあるが、あれは、「儀式律法」「犠牲律法」など、キリストの型であったものが、本体が現われた以上、もはや不要である、ということを述べているのであって、モーセ律法が無効化したとは述べていないのだ。

そして、付け加えるならば、儀式律法や犠牲律法の廃棄は、廃棄ではなく、成就である。劣ったものが、優れたものに置き換えられたのだから、それは、発展であり、確立である。

神がいったんお立てになった法は、神が変わることのない絶対者である以上、けっして変わらないのだ。形態は時代に合わせて変化しても、その内実は変化しない。

キリスト教は、法の不変性を疑うところから崩れていくから注意しよう。

 

 

2004年2月21日

 

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