神への絶対服従は全歴史を通じて人間の義務である


<亀井様>

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-≪以下引用です≫=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


 36問ではこう言われる。「律法と福音の相違は何か」。「律法は自然の法を内容とする。これは創造において神に提起されて人間との間に結ばれたが、人間にはその本性(自然)によって知られるものである。これは我々からは神に対する全き服従を要求し、この契約を守る者には永遠の生命を約束し、これを全うしない者には永遠の罰を与えると威嚇する。しかし、福音は恵みの契約を内容とする。すなわち、これの存在は自然的には知られず、律法の要求する神の義はキリストにおいて成就され、我々における回復はキリストの御霊によってなされたものとして我々に示される。そして、これはキリストを信じる者に、キリストの故の恵みによる永遠の生命を約束するのである」。

 このように「業の契約」と「恵みの契約」の二重契約が提示された。しかし、信仰問答の制定に当たっては契約神学を主張していない。



=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-≪以上引用でした≫=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


<tomi>

「律法は自然の法を内容とする。これは創造において神に提起されて人間との間に結ばれたが、人間にはその本性(自然)によって知られるものである。」

アダムに与えられた律法を「自然の法」であり、「人間にはその本性(自然)によって知られる」が、福音は、「これの存在は自然的には知られ」ない、とするのは、明らかに間違いです。

ヴァン・ティルは、Defence of the Faith(P&R)の中で、エデンの園においても、「特殊啓示は必要であった」と述べており、「善悪の知識の木から取って食べるな」という命令は特殊啓示以外ではない、と言っています。

これは、明らかに「法」です。

それゆえ、アダムに与えられた神の法を、もっぱら自然に帰するのは間違いであり、「自然法思想」の残存を見ます。

ヴァン・ティルは、このことを、「善悪の知識の木」の性質から説き起こします。

なぜ、神は、「見るによく、食べるによさそうな木の実」を禁断の木の実に選ばれたのか?

それは、「神への絶対服従を試すためだった」。

もし、「醜くて、まずそうな木の実」を食べるなと命令されれば、まことに自然の感情と合致しているので、同意は難しくありません。

たとえば、「同性の者と寝てはならない」というような教えならば、同性愛に対して人間の本性や良心はそれを異常と考えますし、それを実践しようとする者には必ず葛藤があります(なくなっているのは堕落して罪責感が麻痺しているからです)ので、禁令としてふさわしいと考えられますが、「おいしそうな木の実」であれば、「これは、食用に造られたのではないか?どうして食べてはならないのか?」という疑問が当然起きます。

ここが、「試練の本質」なのです。神は、「私が禁止したのだ。だから、食べるな。」と言われた。

試練の本質は、「わけがわからないけど、従えるか?」つまり、「絶対服従できるか?」ということにあります。

H教会は、伝統的に、「献身者は、上司に対して絶対服従しなければならない」と教えます。「苗をさかさまに植えろと言われれば、はい、と言って、そのとおりにしなければならない」と。

(これは、人間に対する絶対服従を教えているので、非聖書的です。私たちは、神以外のものに絶対服従してはならない、と聖書は教えています。)

聖書は、律法の本質を、「神への理屈抜きの服従」に置いていることが、アダムへの禁令の記事から分かります。

つまり、エデンの園以来、神の律法とは、「自然法」ではなかった、ということです。

もちろん、「自然の感情」とか「良心」というものを否定するわけではありません。神の律法は、そのほとんどすべてが自然に人間が備えている本質的倫理基準と合致するものです。なぜならば、人間は神に創造されたからです。

しかし、それだけではない。もし、自然的倫理観というようなものだけであれば、「神への絶対服従」という神の法の本質が薄れてしまう。

そして、そこから、自然法思想の侵入が始まる。(もちろん、自然が侵入すれば、必ず、サタンがそれを利用して、人間に自律を勧め、最後には神を追い出すに至る。)

ヴァン・ティルが、善悪の知識の木の実を食べることを禁止した個所を重視したのは、このような理由があったからです。

つまり、「特殊啓示が存在しなかった時代は一つもない」。特殊啓示が存在しなかった時代を一つでも残せば、そこから、自然主義に基づく自律思想が芽生える。

カテキスムス・マヨールは、明らかにここにおいて中世ローマ・カトリックの自然主義を引きずっていると思われます。

まとめ:

この世界において、特殊啓示がなかった時代など一つもない。全時代は、「神の絶対服従」という基本律法によって貫かれており、「人間が自律できる余地は一秒たりとも与えられてこなかった」。「見るによく食べるのによさそうな」木の実を食べるな、という禁令は、どの時代にも存在する。我々は、この「わけがわからなくても従え」という絶対命令を常に神から与えられている。

エデンの園においては、「律法は自然の法だった」ということはできない。たしかに、アダムが堕落する前に自然は完全な基準として機能していた。しかし、それであっても、「それだけが法であった」とは言えない。もしそれだけが法であったならば、「神への絶対服従」は人間の倫理の基本原理ではなかったということになるからだ。

 

 

2004年3月5日

 

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