行事ではなく聖書研究の重要性を自覚しよう


> 屈強なSPに囲まれて登壇するヒン師には、スタッフでも
> 近づくことが全く許されません。
> メッセージ「旧約聖書における聖霊の現れ」は、聖霊論
> を学んだヒトには、特に目新しいものではありませんで
> したが、それはそれで素晴らしいものでした。
> ミニストリー・タイムでは、5年間車椅子生活を送って
> こられた方が自力で歩けるようになったり、緑内障で目
> が見えなかった人が見えるようになった、などの「奇蹟」
> もありました。
> ところが、次がいけない。例のパフォーマンスです。
> 横一列に並んで手をつながせます。バックの音楽も止めて、
> シーンと静かになったその瞬間、すごい大声でマイクに向
> かって「タッチ!!」と叫ぶ。すると一部の人がびっくり
> してひっくり返ると、手をつないだ人たちも倒れ(そうに
> なり)ました。「聖霊の現れです。」の一言。
> あと、非常に気になったのは、彼の眼差しです。ピュアな
> 心とか、神様に仕える謙遜さとかが全くうかがえず、人為
> 的というか、つくりものを感じさせる視線でした。
>
> 先入観を極力排除して参加しましたが、空しい、の一言に
> 尽きます。
>
> ヒン師の前座を務められた先生のミニストリーのほうが、
> ずっと神と人への愛情がこもっていました。
>
> 来年からは、毎年日本に来るそうです・・・


ベニー・ヒンのミニストリはビデオでしか見たことがありませんので、お話を興味深く読ませていただきました。

前にも申し上げましたが、あの音楽と会場の雰囲気が、どうしても催眠術のそれに思えてしかたがありません。

そして、その集会の「成果」として、奇蹟や卒倒や、「聖霊」の目に見える現われが期待されているので、「興行」のような性質を強めているのではないかと思われます。

ビリー・グラハム大会をはじめ、リバイバル聖会や伝道集会が「決心者の数」を成果とするように。

神の御業は、「超自然」であり、それゆえ、人間がどうこうできるというものではありません。

もちろん、人間は弱いものであり、また、会社の成果主義などのアナロジーから、信徒や献金者たちが牧師に「目に見える成果をあげろ」とプレッシャーを与えているのも事実です。

しかし、どうでしょうか。

私は、牧師が、そのようなプレッシャーを受けたり、また、教会成長学のように会員数の増加、などの成果を気にすることによって、キリスト教を本来の姿からひどくかけ離れたものにしているように感じてしかたがないのです。

私が福音的教会で20年ほど暮らして感じたのは、イベント中心で進む教会行事の中において、信徒は諸集会の奉仕にかり出され、忙しく立ち回り、ほとんど聖書を勉強する機会がなく、それゆえ、何十年のベテラン信徒ですら、キリスト教教理のイロハも知らない、そのために、クリスチャンライフが内側から枯渇しているということです。

私は、このような教会の中において、少人数のグループで、聖書研究をし、聖書が教えていることを、誰か人間の口を通じてではなく、直に御言葉から学ぶ機会を積極的に作っていました。

遠足に行ったり、家庭集会をしても、その中で必ず聖書研究をしました。聖書の御言葉から直接感じることを大切にしました。そして、文脈を見ながら個々の聖句を解釈するという基本を身につけるよう指導しました。

そうするとどうでしょうか。非常に強い信仰の持ち主が次々と現われたのです。当時、奉仕をして、積極的にがんばっていると主任牧師から評価されていた人々は、教会を去り、今何をしているか分かりませんが、私の聖書研究グループからは、献身者が起こされ、信徒として残っている人でも、今でも非常に強い信仰を持ち、ホームスクーリングを行ってすばらしい家庭を築いておられます。

『現代に生きるための旧約律法』を訳した床田牧師は、私が学生会の会長をしていたときに救われ、私の聖書研究グループで学んだ一人です。

クリスチャンは誰でも、聖霊によって、御言葉から強い信仰を得る可能性があるのです。もし一人一人が強い信仰を持っていれば、それが社会に与える影響は大きい。それゆえ、いつまでたっても1%未満ということにはならないはずです。

「聖書的である」ということは、非常に重要なことであり、サタンは、聖書を学ぶことを妨害して、行事を行うことに満足を感じさせ、常にABCで留まるよう画策しています。

世俗世界から教会に入ってきた人々は、まだものの考え方が世俗的です。かなりの研鑚を積まない限り、それらの考えから離れることはできません。教会は、信徒にこの研鑚を積ませてこなかった。

むしろ、最近の教会の様子を見ると、教会そのものが世俗化している。コンテクスチュアライゼーションとかの教えによって、世が教会の光になっている。

聖書の考え方を徹底して生活の様々な領域において実践し、それによって、世界を徐々に聖別する働きをしなければならないのに、逆になっているのではないか。

私は、本当に献身して、自分のすべてを犠牲にするような骨のあるクリスチャンが育たない限り、どんなに行事をやっても、日本のクリスチャン人口を増やすことはできないと思います。

つまり、今教会がやっていることは、「的外れ」なのです。

サタンは、「思想」において確固とした土台を築いています。それを崩さない限り、本当のリバイバルは起こらないと思います。

聖書を学び、サタンがどのようにして世界を世俗化していったか、イギリスやアメリカ、ドイツなどかつて宣教師を送り、神の業が行われた土地をどうやって占領していったか、を学んで、それに対する最も効果的な戦略を立てていかない限り、私たちは、このまま世界はサタン化され、バックスライドが続きます。

たしかに、この働きは非常に大変であり、様々な犠牲を強いられますが、しかし、真にやりがいのある仕事です。一度しかない一生を、神の国の建設のために捧げることができれば、本当にすばらしいと思います。

 

 

2004年3月12日

 

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