論争は必要である

 


> 私は一信徒なので、神学的にこみいったことはいえないのです
> が、富井先生の活動に対して疑問があります。
> まとはずれな質問でしたら、すみません。
>
> 一つは神社に主が臨在しているというお考えなのか。

神社には主は臨在しておられません。
私が述べているのは、「以前」臨在されただろう、ということです。


> イエス様は再臨されるのか?

再臨されます。

> 私は終末論はいくつかあるとはきいていましたがはっきりわか
> らない事なので、今は私達ははっきりわかっている事だけ信じ
> ていれば救われる(イエス様が私の罪のために死んだという救
> いをうけとる事)でいいと思うのですが、だめなのですか?

それでいいと思います。

> あと、福音主義?の方々に聞きたいのですが、どうして聖書に
> はいっぱいイエス様がいやしや奇跡を行われたこと、また聖霊
> の存在があるとはっきり書いてあると思うのですが、それを語
> る事をいやがるのか?という事です。

これは、福音派の間違いです。
奇蹟や聖霊の存在を語るべきだと思います。

> 私は教派の論争合戦が日本のリバイバル(たくさんの人が救わ
> れること)をさまたげていると思います。
> できればお互い歩みよりが必要だと思うのですが、どうなので
> しょうか。

残念ながら、むしろ、教派の間に論争がないことが問題だと思います。
主の御言葉の意味が明らかになるためには、論争は必要です。

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」 (ルカ12・49−53)

大切なのは、「真理」であって、「和」ではありません。
「和」は、人々が共通の真理の上に立ってのみ成り立ちます。

なぜならば、人間は大なり小なり誤謬を信じて生きています。
しかし、主の御心は、聖書の真理を深く知ることであり、真理を深く知ると、主への愛が起こってきます。

「神様の御心よりもむしろ平和だ」という現在の諸教派の態度は、「人間が中心になっている態度」です。

> 私は富井先生の働きも聖霊の働きも大切だと思います。

ありがとうございます。

 

 

2004年1月7日

 

 ホーム

ツイート

 



millnm@path.ne.jp