霊だけで聖書への忠実を軽んじる働きはサタンに利用される


<O様>
一夜明けて、神様の前に静まって、聖会のことを思いめぐらしておりました。
確かに奇跡的な癒し(アル中の未信者の女性が癒されて、イエス様を主として受け入れた、というのもありました)は聖霊様の現れだと示されました。
でも、やはり、今回の聖会は「一大エンターテイメント」だったと思います。
「今、ここに聖霊様の臨在があります。」とヒン師がおっしゃったけれども、それは(全部ではなくても)彼のパフォーマンスで演出された集団催眠でした。
神様の御臨在は、あのようにショウ・アップしないと現れないのか??

メッセージの聖霊論では3箇所に疑問が残りました。
1.創世記1:2から、「聖霊様は創造主である。」
2.創世記3:24の「炎の剣」は聖霊様である。
3.神様は人間が罪を犯して堕落することを御存知なかった(予期しておられなかった)。

ヒン師は聖会を閉じる際のメッセージで、「私のように聖霊様に自分の全てを明け渡したら、私が行っているのと同じ事が、皆さんにもできるのです。」
聖霊様に従順すると、あのようなエンターテイナーになれる、という事でしょうか?寛容、親切、善意、誠実、柔和の実はどこへ行ってしまうのでしょう?

前回のメールでもお伝えしましたが、ヒン師の聖会の前座でリニューアル聖会があって、そこでのメッセンジャーを務められた牧師は、長蛇の列をなしている人々一人一人に、実に丁寧に、時には受ける人と共に涙しつつ、ミニストリー(癒しの祈り、個人預言、解放の祈りなど)をされていました。そこには豊かで聖霊様から来る暖かい油注ぎ(油塗り)がありました。

見たまま、思ったままを記しました。

<tomi>

たしかに、集団催眠の要素はあると思います。
昔、テレビで、一列に立たせられた人が、一喝するとバタバタと倒れたのを見たことがあります。

私は、催眠術だけではなく、「気」というものも作用しているのではないかと思います。
催眠術にしても、気功にしても、ノンクリスチャンでもできることで、それと同じことを「聖霊の働き」と称して行っているのではないか。
私は、ここに人為的なものを感じるのです。
恐らく、それは、「何かの視覚的効果がなければ人を集めることができない」という「興行師」的な発想があるからだろう、と。

そして、神の働きを人為的なものを織り交ぜてやってもよい、と考えているところがすでに働き人としては疑問符を打たれるべきであり、神からの徹底した取り扱いを受けていない人であると思います。

主の働き人は、働きにつく前に、「あらゆる人為的なものに対する絶望」がなければならない。

なぜならば、神のみ前でごまかしは通用しないからです。サタンの教えが半分混じったもので成功するということは、非常に怖いことです。サタンが1枚噛んでいると、そこから苦い根が必ず生じて、知らないうちに全体を汚染していくからです。

カトリックの聖堂のように、華美な装飾、服装、もったいぶった儀式などは、神の働きに付け加えられた人為的な創作であり、間違いなく「騙し」です。

パレスチナのいわゆる「聖地」に行くと、カトリックが作った様々な「記念物」があるそうです。たとえば、十字架をかついでイエスが歩かれたとき、転んで手をついた場所とか。昇天されたときの跡とか。
恐らく、これらは巡礼に来た人々に配慮して作り出された「みやげ話のネタ」でしょう。

ベニー・ヒンなどは、ショーマンとしての才能はたしかにあるかもしれませんが、しかし、そのような才能はクリスチャンでなくても持っています。

クリスチャンでなくても持っているような才能は、自己過信につながり、それによって成果が上がると、それに頼るようになり、聖霊の働きは逆に減退します。

聖霊の働きが減退すると、それを補うために、あたかも聖霊がなさったかのような霊的現象を人為的に作り出そうとします。そこにサタンがつけこみます。
サタンは、聖霊の働きに似せた業を聖会の中に加えていきます。

私が参加したある聖霊派の聖会は、とにかくそこからすぐにでも離れたくなるような「違う霊」を感じさせるものでした。「聖書を勉強したり、掟にこだわったりすると暗くなります。勉強するのではなく聖霊に満たされ、賛美しましょう!」という言葉を聞いて、納得しました。

聖書は聖霊の著作であるわけですから、「聖書を勉強してはならない」という教えが聖霊から出ているはずはありません。
そのような教えをメッセンジャーに吹き込んだのは、「聖霊のふりをしたサタン」です。

私は、霊だけで進み、「聖書への忠実」を軽んじる運動は、すべてことごとくサタンに利用されると考えています。

本当に聖霊の運動であれば、必ず聖書の一言一句にこだわり、神学を馬鹿にしたり、聖書研究を軽んじたりするはずはありません。

霊とは非常に微妙なものです。自分が聖霊だと思っていたものが、知らないうちに悪霊に変わっているということがあります。人間は、どの霊に支配されるかによって、180度人格が変わってしまうほど霊の力は強い。

それゆえ、クリスチャンは、霊的な体験に依存したり、霊現象を評価したり、それを行う伝道者をことさらに重視すべきではなく、聖書に忠実か、ということに注目し、聖書の教えを学んでそれを実生活に適用するということを重視すべきではないか、と考えます。

 

 

2004年3月14日

 

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