反三位一体論は異端である

 

サベリウス主義のように、ユニテリアン(神はひとりであり、人格も一つであるとする説)の信仰は、「不可避的に」キリストを神と認めないことになるので、異端である。

それゆえ、自らサベリウス主義と同一であると宣言しているワンネス神学も同じように、異端である。

ワンネス神学を信じている教会は、ものみの塔をバカにできない。信仰の内容は同じだから。

ワンネス神学がイエス・キリストを神の単一位格とするのに対して、ものみの塔は父なる神をそれとする。

つまり、ワンネス神学は「神はお一人であり、それはイエス・キリストである。」というのに対して、ものみの塔は、「神はお一人であり、それは父なる神である。」という。

この違いだけであって、神には3つの人格があるという考えを否定するという点では一致している。

「三位一体など、神の本質に対する見解であって、我々の魂の救いとは関係がないから、異端と呼ぶのはおかしい。イエス・キリストが救い主であると信じればよしとすべきだ」という意見が最近はやり始めているが、大きな間違いである。

まず、神に単一の人格しか存在しないとすると、神の自存性(自己完結性)が否定される。

つまり、神は永遠の昔から永遠の未来まで存在し、他の一切の助けや影響を必要としない、という見解は否定され、それゆえ、神の絶対性は否定される。

神のレプリカである人間において、「対自関係」「対他関係」があるならば、当然、神にもそれらがあるはずである。

ユニテリアンの信仰は、「対自関係の永遠性」だけしか説明できず、「対他関係の永遠性」を説明できない。

なぜならば、もし神の内部に一つの人格しか存在しないならば、「永遠の社会」が存在しないということになるからである。

神の内部に複数の人格があるから、愛や謙遜、服従などの神の御性質は永遠なのである。

愛する対象がいなければ、愛は自分に対する愛ということになり、他者への愛は発現することがない。それゆえ、神に欠乏が起き、「神は被造物を必要とする」ということになるのである。

イエス・キリストは、父なる神に向かって、次のように述べておられる。

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 …
そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17.24-25)

父なる神とキリストの間には、「永遠の愛」があった。これは、「対他関係」である。

人間は派生的存在であり、神の存在の模倣である。それゆえ、人間にしか存在しないものはないのである。人間にあって、神にはないというものは、「罪」を除いて存在しない。

人間同士が愛し合うのは、神の位格同士の愛の反映であり、レプリカである。

人間同士が愛し合うのは、神の位格同士が愛し合っていることを表現するためである。

神は、創造において、人間を通して神の御性質を表現しようとされたのである。

それゆえ、神の内部に複数の位格が存在しないという説は、神を人間以下のものにする教えである。

神の栄光は、人格を通して最もよく表現されるのである。もちろん、無生物や動物を通しても神の栄光は現われるのであるが、それだけでは十分ではない。

神が人間を創造されたのは、神の人格性を表現されるためである。そして、その人格性とは、人格同士の愛において最もよく表現されるのであるから、人間同士が愛し合って、神が愛し合うということがないというのは、神を人間よりも一段低いものとすることなのである。

この議論を展開したのは、アウグスチヌスである。

そして、三位一体は教会において正統と異端を分ける分水嶺として1700年の歴史がある。

三位一体を否定することは、聖書の明白な教えを否定するだけではなく、神が教会を真理に導いてこられたことをも否定することになるのである。

軽微な誤謬とは絶対に言えないのである。



 

 

2003年08月15日

 

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