疑いを払拭しない限り教会は無力のままである

 


ある兄弟から、「今、福音派の牧師の息子が、気が狂って、うちの教会に世話になっている」と聞いた。

精神病院に入れても薬を投与されるだけで、このままだと廃人にされてしまう、とのことだ。

彼には2つの側面があるという。礼拝の途中で、「ハレルヤ。ハレルヤ。神様にすべてを委ねます」と信仰的なことを言ったかと思えば、牧師がメッセージにおいて「信仰に硬く立ちましょう!」と呼びかけると、「俺はインポだから立たねえんだよ」と大きな声で叫ぶという。

明らかに、彼の中には、聖霊も悪霊も働いている。

しかし、残念ながら、福音派は、霊的現象を否定する傾向にあり、この牧師も現代においてそのようなことがあるはずがない、と考えている。

だから、「断食祈祷によって悪霊を追い出しましょう!」と勧めても、「今の時代に悪霊ですかぁ?」とひるんでしまうのである。

疑いが少しでもあれば、断食祈祷しても、息子さんはけっして治らない。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1・6-7)

疑う人に神は手を貸さない。

なぜならば、疑うという行為は、神の上に立って、神を裁いていることだからだ。

神を主権者として礼拝している人は、神の言葉を自分の権威として受け取り、けっして疑わないので、「本当のしもべ」である。

しかし、疑う人は、自分が神と御言葉の上に立ち、神を裁き、御言葉を裁いているので、「偽のしもべ」である。

このような人が、何かを受けることができるはずなどないのである。

現代の福音派を汚染している「疑い」を払拭しない限り、教会は無力のままである。

 

 

2003年11月28日

 

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