主流に帰れ

 

2チャンネルで再建主義者を批判する人々は、「再建主義者は、『ディスペンセーショナリストはこの世の問題から逃避している』と言っている。これは、まったく下劣な想像の産物でしかない」と言うが、はたしてそうだろうか。

ディスペンセーショナリスト自身がこれを認めていたらどうだろう。

ディスペンセーショナリスト、デイビッド・シュニットガーは、『患難前携挙論者から見たキリスト教再建主義』という本の中で次のように述べている。

「ノースや他のポスト・ミレのキリスト教再建主義者たちは、患難前携挙論者を敬虔主義者とか逃避論者と呼んでいる。これらの批判は本質をついているので非常に痛い。

事実、我々の陣営に属する多くの人は、社会の行く末について徹底した悲観主義に立っており、神の民はそれに関して手も足も出ない、と信じている。

彼らは、心の底から『サタンは地上において元気に活動している』と主張し、我々の世代は『最後の世代』であり、それゆえ、社会に対して影響を与えようとしても失敗する以外にはない、と本気で信じている。

彼らは、敬虔主義者といっしょになって、『沈み行く船上の真鍮を磨くな』という決まり文句を唱える。

多くの悲観主義・患難前携挙論者は、ヒューマニストたちが信じる『信仰の自由』論に執着している。つまり、クリスチャンは、自分のことを救命具に必死にしがみつく人になぞらえ、『社会や政治の問題について我々は無能である』と告白しているのである。」(David Schnittger, Christian Reconstruction from a Pretribulational Perspective(Oklahoma City: Southwest Radio Church, 1986), p.7.)

ディスペンセーショナリストは、我々の批判が的を射ているのをよく知っているのである。だから、正面切って我々に反論する人々がいないのである。もし、反論したいなら、公開の場で討論しようではないか。彼らは、自分達が負けることを知っている。

私は、大学時代から、「なぜ牧師たちは、救済の歴史を講壇から説かないのか」と不思議に思ってきた。どの牧師も、堕落から終末にいたる救いの歴史を扱おうとしなかった。もし我々の立場が真理であるならば、堂々と歴史の意味について語ることができるはずなのに…。

試験において、優秀な解答を書ける生徒は、「題意」を読み取ることができる。たとえば、数学ができる生徒は、出題者が何を求めているか分かる。「ああ、この問題はこの公式を適用できるか試しているんだな」とすぐに理解できる。数学ができない生徒は、題意をくみ取ることができないので、トンチンカンな解答をするのである。

キリスト教においても同じことが言えるのである。神が歴史を通じて、人間に何を求めておられるのか?という大所高所に立ち、大局をおさえながら個別の問題に取り組むことができる人は、本当の答えを得られるが、その大局を理解しない人は、トンチンカンなことをするのである。

しかし、私を指導した牧師たちは、このような大局を教えてくれなかった。なぜ教えることを拒むのか。それとも、教えることができないのか。

両方だろう。まず牧師自身が、先輩の牧師からそのことを教えられてこなかったし、また、自分でもそれを知ろうとしなかったからであろう。では、どうして、「知ろうとしない」のか。

「歴史全体を眺めると、人間の責任が倍増するから」である。

地を従えよ、との命令をまともに受け取ると、クリスチャンは、この世界のあらゆるものを神のために支配しなければならなくなる、ということが分かるからである。これまで、触れずにいた政治や社会の様々な問題にまでクリスチャンの責任となってしまうからである。

「なぜ人間は創造されたのか」「これから世界はどうなるのか」という問題を考えるならば、当然、「我々は神のために世界を統治し、そこを御国としなければならない」という結論に至らざるを得ない。しかし、このような責任を嫌い、救いの恵みだけを受け取ろうとする人は、巧みにこのような問題提起を避けるのである。だから、講壇から救済史を語る牧師がいなかったのである。

「いや、うちの教会では教えてくれますよ」という人がいるかもしれない。しかし、教えられているものは、御国建設ではなく、「逃避的歴史観」なはずだ。つまり、「はじめ人間は『地を従えよ』と命令されたが、エデンにおいて失敗したので、神は新しく、律法や行ないや責任から離れ、ただひたすら恵みを受けるだけの時代を開いてくださった」というような教えだろう。

私がはじめて救済史について学んだのは、ディスペンセーショナリスト、エーリヒ・ザウアーからだった。他の立場の牧師からはまったく救済史を学んだことがないのだ。

今の教会の悲劇は、「歴史観の欠如」にある。その根本的な原因は、「責任回避」にあるのだ。

どこを見渡しても、歴史観を持った教会はない。持っていたとしても、逃避的である。「地を従えよ」とはっきりと教え、そして、それが可能であることを教え、政治・経済、あらゆる分野を改革しようと、訴える教会はない。説教は、どれもこれも「内面の聖化」とか「個人的生活に関する勧め」ばかりである。

サタンは、クリスチャンを逃避的にし、内向的な人種に変えることに成功した。しかし、我々はこの陰謀を挫き、クリスチャンの目を外に向けることができる。今、アメリカで起こっている政治的な変化は、その証拠である。クリスチャンが、アメリカの政治を変えようとしているのである。

日本ではどうだろうか。牧師のみなさん、どうか、聖書の歴史観を講壇から語ってください。クリスチャンだけが、サタンの策謀を挫き、この世界を改革できることを大胆に語ってください。そうすれば、あなたの教会は豊かに祝福され、大きなリバイバルが起こるでしょう。

聖書が述べている本質に戻りましょう。これまでの霊的な退潮の原因は、「逃避」にあったのです。神はご自身の命令に従う人を祝福しないはずがありません。しばらくの戦いの後に、神はあなたとあなたの教会に勝利を与えてくださるでしょう。


 

 

2003年09月14日

 

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