契約に対する正しい理解は教会生活全般を変える

 

今日、旧約律法の現代的意味に関する問題の多くは、契約について理解していないからである。

異邦人は、イスラエルが入っていた契約に招き入れられたのである。それまでユダヤ人しか入れなかった契約の家の中に入ることができたのである。そして、ユダヤ人と同じように、契約の民として生活を始めたのである。

養子が、新しい家の一員として招かれたように、異邦人は神の家族に加えられたのである。

それゆえ、異邦人も、それまでユダヤ人が守っていたこの家の掟に従うべきである。家事を手伝うとか、夜何時に寝るとか、家のルールに従うべきである。

しかし、羊や牛を飼わない異邦人にとって、ユダヤ人が守っていたルールは、あまりにも民族的過ぎるので、普遍的ルールが必要となったのである。

そこで、イエスは、「新しいぶどう酒は新しい皮袋へ入れよ」といわれたのである。

しかし、この変更は、ルールの消滅とか廃棄を意味していない。養子が新たに加わったからといって、その養子がまるで暴れ馬のように、家のルールを無視し、やりたい放題やってよくなったというわけではない。

だから、「無律法主義」は間違いなのである。

異邦人は、「契約」の中に入ったのである。だから、契約を守らねばならないのである。契約の意味は、異邦人に合うように外貌を変えても、本質は変わらない。なぜならば、その家の主人の性質が不変だからである。

旧約聖書から新約聖書に変わったということは、契約にユダヤ人だけではなく、異邦人も加わったということである。契約が変わったり、廃棄されたわけではなく、全世界の国民が守ることができるように「普遍化」されたのである。

神は変わることのないお方なので、契約の法も変化しない。
変化したのは、様々な地域や時代や文化に通用するように普遍化されたということであり、契約の掟の本質部分が変化したわけではない。

それゆえ、幼児洗礼の問題も、これに則して理解しなければならない。

旧約時代において理性のない幼児を契約に加えよと神が命じられたならば、新約時代においても同じ原理は適用できるのである。新約時代においても、幼児は両親の信仰のゆえに無条件で契約の中に入るべきである。

旧約聖書における契約の概念は、「普遍化」という意味以外においては変化していないのである。幼児割礼は、古代ユダヤ民族に限定されている「特殊規定」であるが、契約入会という概念は普遍的なので、異邦人も自分の子供を契約に「異なる方法で」加えるべきである。

異邦人は、ユダヤ人と別の家に入ったのではない。
異邦人は、ユダヤ人と同じ家の中に招かれた養子である(聖書において、養子は実の子と同等の価値と権利を持つ)。

だから、我々は、旧約聖書の律法を勉強しなければならないのである。

今日、旧約律法を研究し、礼拝の本質をそこから学んで、ギリシャ・ローマ文化の影響を濃厚に受けている礼拝形式から脱却すべきである。日本の教会で今日行われている礼拝の方法は、ローマ・カトリックの典礼中心主義に対する対抗として生まれた西洋プロテスタントの教育中心主義に基づいている。

もともとの礼拝は、象徴をふんだんに用いた絵画的なものであったが、本質だけを過度に重視したプロテスタントの礼拝において、すべてが幾何学模様のように味気なくなってしまったのである。

現代の礼拝は、ギリシャ・ローマ文化によって歪められているので、我々は、聖書そのもの、律法そのものから直に学び、もっと味わい深い、荘厳なものに変えるべきである。

正直言って、今の礼拝は、安っぽいのである。荘厳さに欠けるのである。偉大なる神を象徴するには、荘厳な礼拝が不可欠である。賛美歌や聖歌は、甘ったるくて、子供っぽいので、詩篇歌と、荘厳で芸術的な歌を自前で作るべきである。

ロシア正教の寺院を訪れていただきたい。そして、賛美を一度聞いていただきたい。荘厳かつ聖潔である。聖歌隊は2階席におり、姿が見えないように壁ができている。声が天井に反響する構造になっているので、あたかも天使の歌声のように聞こえるのである。(ロシア正教のギリシャ的部分は別として)このような荘厳さが今日の教会には必要である。

教会は、芸術のリーダーにもならなければならないのである。


 

 

2003年05月09日

 

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