キリストは最初から受肉しなければならなかったのか?


> > 再建主義者は「ウェストミンスター信仰告白は誤謬を含んでいるから、受け入れら
> れない」という立場のようですが、
>
> 故R.J.Rushdoonyは、二重契約神学を否定します。
> 富井健氏は、二重契約神学を肯定します。
> 私は、最近、二重契約神学は誤りではないかという確信に至りつつあります。
>
> (※以前も投稿で書きましたが、私は一信徒で、どこかの神学校で専門的な教育を受
> けたわけではありませんので、特定の教団や教会を代表する教説を唱えているわけで
> はなく、己の信仰の確信に関して主張しています。)

二重契約神学ではない契約神学は存在しないと思われます。

一番重要なポイント:もし、アダムが最初に神から「全被造物の代表」として任命されていなかったとすれば、次の2点の疑問が生じます。

二重契約神学否定論は、これに答えることができるでしょうか。

(1)どうして、アダムが堕落した時に、全被造物も堕落したのか?

アダムが堕落した時に、被造世界全体が堕落した、と聖書は述べています。

「また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、<あなたのゆえに>のろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。… 』」(創世記3・17)

パウロは、アダム以来、被造物は「虚無に服し」「滅びの束縛」にあり、「産みの苦しみをしている」と述べています。

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8・19-22)

被造物が「虚無に服し」「滅びの束縛」の中に入ったのは、アダムが堕落したからです。もし、創造時からそのようであったとすれば、神の創造は不完全であった、ということになります。しかし、最初、被造物は完全でした。

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1・31)

被造世界は、アダムが堕落するまで完全でした。ということは、被造物が今日のようになったのは、アダムに責任があるということになります。

アダムは全世界を背負って神と契約を結んだのです。

もし、アダムが神の御前に、被造世界全体の代表として契約を結んだのでなかったとすれば、被造世界全体がなぜアダムの不服従に対する裁きに巻き込まれたか分かりません。

明らかに、全被造物の堕落は、アダムが神と「業の契約」を結んだことを示しています。

アダムは、全世界を背負って、神に対して服従を貫く責任を負わされていたのです。



(2)世界の完成と奉献の責任を果たすために最初からキリストは受肉しなければならなかったのか。

アダムは、神との間に業の契約を結び、完全服従を通じて、自分だけではなく、全世界をも完成して神に献上しなければなりませんでした。

なぜならば、彼は、「預言者、王、祭司」として創造されたからです。

神は、アダムに「地を従えよ」(創世記1・28)と命令されました。

しかし、アダムは失敗したために、地は呪われ、全被造物が虚無に服しました。

そこで、キリストがアダムの失敗した任務を引き受けて、神に完全服従することによって、契約の祝福を受け取り、全被造世界をことごとく清め、神に献上することになりました。

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神に<お渡しになります>。 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。 『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。」(1コリント15・24-27)

この個所で、はっきりと、アダムの「祭司」の使命をキリストが達成したということが分かります。

聖書は、このように、アダムとキリストを、「失敗者」と「成功者」として対比しています。

ということは、キリストが神との間に結んだ契約は、もともとアダムとの間で結ばれていたのだ、ということを示しています。

もちろん、キリストと神が結んだ契約は、「業の契約」です。キリストは、完全に律法を守ることを期待されていました。十字架の上で、キリストが「完了した」といわれたのは、律法の要求をキリストが完全に全うしたことを意味しています。

さて、もしアダムが神との間に「業の契約」を結んでいなかったとしたら、被造物を完成して、献上するという「祭司の務め」は、いったい誰が行うはずだったのでしょうか。

最初から、キリストは受肉しなければならなかったのでしょうか。

最初から、神の御心の中に、アダムとは別に、世界を奉献させるために、キリストを受肉させるプランがあったのでしょうか。

そうではありません。

聖書が啓示しているのは、アダムが祭司としての使命を達成できなかったので、神であるキリストが、肉体をとり、人間となって、代わりに使命を全うしたということです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8・3)

「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「…そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。…神よ、あなたのみこころを行なうために。』」(ヘブル10・5-7)


結論:

二重契約神学を否定することは、アダムの原初の契約的立場を矮小化することです。

アダムが、「祭司」として、この世界を完成し、清めて神に捧げる使命を帯びていたことが否定されます。

これは、「第2のアダム」としてのキリストの使命もボケることになり、結果として、神の計画の全体像を把握することを難しくしてしまいます。

 

 

2004年2月24日

 

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