思想は恐ろしいものである


<fms様>

>その後、心臓病で急死した時に、ゲイリー.ノースは次の
>ようなかなり辛らつなことを述べた。
>「チルトンは晩年に異端になった。これ以上彼の影響が
>広まらないためにも、彼の死は神の御旨なのだろう。私
>は彼が立場を変更したが、彼の著書の権利は私のもの
>なので、これからも彼の著書を利用させてもらう。」

富井様
いつも、興味深い内容をありがとうございます。
このゲイリー・ノースの辛辣な言葉は、まるでスターリンの大粛清みたいなものを連
想させてしまいます。
チルトンの死が、神学的立場を変えたことによる神の裁き(?)であったということ
が、ゲイリー・ノースには本当にわかったのでしょうか。
ゲイリー・ノース自身は、長命であったのでしょうか。
たしか、ルターもツウィングリの死について、似たようなことを言っていたと思いま
す。
また、カルヴァンは、多くの病をその身に宿していたようですし、彼の寿命は長いも
のではありませんでした。
しかし、一方では、無神論者が百歳以上の寿命を享受したり、キリスト教に深刻な影
響を与える人々が、まさにその思想の故に幸福であったり健康であったりします。
私には神学的立場と寿命というのは、関係ないように思えるのですが、いかがでしょ
うか。
チルトンが異端的であったにせよ、キリスト教界にはそれ以上に異端的な影響力を持
つ人がたくさんいると思うのです。彼らが非業の死を遂げているとは思えませんし・
・・。
神慈秀明会という、浄霊を行なう新興宗教は、退会しようとする人に「辞めたら数週
間以内にあなたは交通事故で死ぬ」などと言うそうです。多くの場合、何も起こらな
いとは思いますが、そう告げられて実際に調子が狂ってしまい、バイクで事故を起こ
して死んだ人もいました。でも、これは神の裁きとは思えません。
今回は、本文の主旨とは別に、変なところに関心が行ってしまいました。
fms

<tomi>

(1)
ゲイリー・ノースは、今も存命しています。
彼は、かなり辛らつなことを言うので有名ですが、私は、彼に同意できる部分があります。
というのも、神学的な逸脱は、ある意味において、殺人や窃盗などとはくらべものに
ならないくらいに、影響が大きいからです。
直接に「人を殺しなさい」と言わなくても、思想の必然的・論理的な結果がそのようなものになる教えがあります。
たとえば、オウムのカルマなどです。
「さらに高いステージに上らせる」「これ以上悪行を積ませないために」などという理屈で殺人すらも合法化されてしまいます。

思想というものは、恐ろしいものです。

ホーチミンに従っていたベトナムの民衆は、共産主義というものがどういうものであるかを知らなかったのでしょう。だから北軍に協力してゲリラ戦を戦ったのでしょう。

思想は、人々の日常生活からかけ離れたところにあるものであることがほとんどなので、その恐ろしさが分かるのは、ずいぶんと後になってから、ということが多いのです。

サイゴンが陥落した後に待っていたのは、恐怖の連続でした。「人民のために」という美辞麗句を信じていた民衆は、実際に共産政権がどのようなものであるかを肌で体験することになりました。

それゆえ、思想において戦っている人々は誤解されることが多いのです。

かつて細川首相が、最近では、小泉首相が、「これは神学論議に過ぎない」と言いましたが、思想の怖さを知らないからです。

フルプレテリズムについて、外部の方からは分かりにくい部分があるかもしれませんが、フルプレテリズムの論理的な結果は、ある意味において、クリスチャンの確信を根こそぎ奪い取る力があります。

(2)
人の行ないと寿命が関係する場合があります。
悪いことをしたら短命で、良いことをしたら長命だ、と必ず目に見える結果となる、とは言えませんが、しかし、長期的に見て、悪人は短命で、善人は長命ということがいえます。

神は、「あなたの父母を敬いなさい。あなたの土地で長く生きるために。」と言われました。

父母や年長者に対して尊敬を払わない社会は、彼らの知恵を得ることを拒むので、自殺する社会です。

何でもそうですが、先輩とか先生など、その道における先達や経験者の言葉を尊重するほうが、利益になるのです。

(3)
新興宗教が「脱会したら悪いことが起きる」という場合、それは、恐怖によって人を縛り付けておこうとする、「支配欲」から出ていると思います。

聖書的キリスト教は、そのようなものではありません。

その相手が深い穴に落ちそうなときに、大声で警告する、場合によっては非常に厳しいことを言う場合もあります。

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」という言葉が聖書にあります。

耳が痛い言葉も、時には必要な場合があります。

少なくともゲイリー・ノースの厳しい言葉は、周りの人々への警告という意味があると思います。

 

 

2004年2月22日

 

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