ほいほいと異端に嵌らないためには


麻原の第一印象は、弟子達によると、「非常に優しそうな感じで、一切を拒否しない包容感を感じた」そうだ。

彼の電話の会話を聞いたことがあるが、「この人、牧師になったら大教会を作れるだろうなあ」と思った。

牧会的配慮ができる人に思えた。

上佑は、「私は尊師の愛に惹かれた」と入会の動機を語っていた。

しかし、残念なことに、「やさしさ、すなわち、真理」とは言えないのだ。

だいたいにおいて、今日、牧会的な配慮や指導力に長け、成功している大教会や大牧師で、まともな神学を奉じている人は皆無と言ってよい。

そのほとんどが、あと一歩踏み込めば異端である。

メッセージが天才的にうまいある牧師は、語っている内容は、世俗心理学である。「受容」が彼のキーワードだ。子供に暴力をふるわれて困っている親に向かって「なぐらせてあげなさい。彼はあなたの愛情を確認しているのですから」とアドバイスし、その人は、本当に殺されかかったうえ、一向によくならなかったという。

聖書は、異なる教えに嵌る人のことを「子供」と呼んでいる。

「私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく(なるように。)」(エペソ4・14)

異端の教えに振り回されている人は、その実、子供なのだ。

子供というのは、まず(1)経験が少ない、(2)知識がない、(3)バランスを取れない、という特徴がある。

大人は、経験によって、価値のあるものとそうでないものを見分ける知恵をつけていく。また、いろんな人と出会い、いろいろな仕事をし、いろいろな場所に行って、世の中のいろいろな面を見て、知識が豊かである。

それゆえ、大人になれば、総合的にものごとを見ることができて、正しいものと間違ったものを区別する能力が身についているはずである。

しかし、実際のところ、数十年の信仰生活を経ている人でも、簡単に異端に騙されてしまう人がいるのはなぜだろう。

それは、本当の意味において、知識を得ていないからだ。経験によって大切なものとそうではないものの区別ができていないのは、その知識が単なる書物の知識に留まって、「知恵」にまで至っていないからだ。

どんなに書物を読んでいても、その書物から得た知識が、経験と一つになって、自分の血となり肉となっていなければむなしい。だから、本をどれだけ読み、神学の知識をどれだけつけたかによって、その人が知恵のある人になれるかどうかが決定されるわけではないのだ。

知恵を得るには、本を読むことも大切だが、その読んだ本を経験と照らし合わせてよく咀嚼しなければならない。つまり、よく考えて、瞑想し、他の知識と関連づけて総合化していくことである。

10年も私の書いたものを読み、英語の本も読んでいる牧師が、簡単に異端のほうに走り、それまで信じていた基本的教義を丸ごと捨てたのは、総合を怠ったからだ。

自分で一つ一つ体験の中で知識を積み上げ、自分の血や肉としてこなかったから、丸ごとポイっと捨てられたわけだ。

知識は、格闘しない限り、身につかない。ただ漫然と本を読んでも、いざという時に捨てることになる。

ある意味において、一つ一つの言葉にこだわり、食らいつく気迫がない限り、そのような人は、一生浮き草のように、ふわふわと流行に流されるしかないだろう。

聖書は聖書、実際の牧会は牧会、普段の生活は生活、と切り分けして、うまく世渡りしているような人には、神学などできないのだ。異端に騙されないためには、御言葉に頼り、それに命をかける、というくらいの真剣な取り組みが必要だと、自戒をこめて申し上げたい。

 

 

2004年2月28日

 

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