聖徳太子とイエス・キリスト


非常に面白いサイトがありました。

http://www.ne.jp/asahi/t-oura/expo/sohgen/s1070.html


以下引用します。



記紀は「聖典」だった
 
 日本最古の正史は「記紀」、すなわち「古事記」と「日本書紀」である。
 私は以前、聖徳太子こそ日本の建国者であり、初代天皇だったのではないかと考えていた。その根拠は、日本書紀が文字通り日本の歴史であるのに対し、古事記は「古い事の記録」だから、まだ日本が建国される前の列島の歴史ではないかと考えたのである。これが正しければ、古事記がどこで終わっているかを見れば、新しい日本がいつ始まったのかも自動的にわかるはずだ。
 古事記は、推古朝の途中、まさに厩戸皇子が登場する直前で筆が置かれているのである。

 しかし、古事記に厩戸皇子が出てこない理由がもうひとつあった。
 歴史書であると同時に「天皇を神とする教典」である記紀が、2つでセットであることは、否応なしに旧約聖書と新約聖書を思い起こさせる。
 事実、古事記の天地創造や国生みの記述などには、明らかに旧約聖書(とくに創世記)の影響が見られる。
 書紀は厩戸皇子の誕生を「皇后(穴穂部間人皇女)が厩の戸に当たられた拍子に、難なく出産された」と伝えている。これを、新約聖書のイエスの誕生の記事と比べてみよう。


 ・・・天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。(以下略)」
 ・・・ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ福音書)


 厩戸皇子の誕生のエピソードは、後世は以下のように脚色され、その「イエス化」がさらに進んでいる。



 穴穂部間人皇女の元旦の夢に金色に輝く僧(正体は西方の救世観音菩薩)が現れ、「われに救世の願いあり。よって胎をかりる」との託宣があった。
 穴穂部間人皇女は辞退したが、「これは宿世の縁なり。これによって国本立ち、多くの民の救われることを思い、心安らけくおわすべし」と告げ、ひとすじの金色の光と化して妃の口から胎内に入った。
 十カ月後、邸内を散歩し、厩戸の前に来たとき産気を覚え、その場にうずくまった。女孺(めのわらわ)たちが妃を産室へ運ぶと、玉のような皇子が生まれ、西方から黄色の光が邸内から庭先までも照らし、空高く瑞雲がたなびいた。






穴穂部間人皇女は、まさに、マリアそのものですね。
明らかに、新約聖書の影響がある。誰も疑えないでしょう。
聖徳太子の誕生物語がマリアの処女懐胎の影響で出来ているならば、聖徳太子は、イエス・キリストとなぞらえられていたのか?厩(うまや)で生まれたという話も偶然とは思えない。10人の話を同時に聞くなど、神格化されている。

年末に『時空警察』というTV番組で、聖徳太子とイエス・キリストとの関係を扱っていました。

聖徳太子の側近は、あのユダヤ系キリスト教徒といわれ、京都を作った秦河勝。

秦氏は、稲荷を信仰しており、一説によると、稲荷の語源は、INRIだという。もちろん、INRIとは、イエスの十字架にかかげられていた「これはユダヤ人の王」という文言の頭文字。

このHPの著者の、「古事記」が旧約聖書で、「日本書紀」が新約聖書というアイデアは面白い。

やはり、古代世界は、我々の想像をはるかに越えて、東西関係が発達していたのではないでしょうか。

 

 

2004年2月10日

 

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