『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論 その7

 


<K>
 ファンダメンタリストが頼みとするのは揺るぎなき正典、聖書である。聖書の言葉こそは人間を根底から支える永遠の原理であり、人にいかに振舞うべきかを教える絶対無比の規範である。聖書は男女には役割の別があり、長幼の序を守り、聖職者と信徒の階位は遵守されねばならないと教えている。聖書はどこでも、誰にでも適用されるべき唯一の真実であって、世俗性などという、この神の、言葉から独立した人間領域があるはずがない。したがって国家と宗教の分離、宗教と政治を区分する近代原理なぞ到底認められるはずもない。

<T>
「聖書は男女には役割の別があり、長幼の序を守り、聖職者と信徒の階位は遵守されねばならないと教えている。」

ファンダメンタリストにもいろいろいるが、プロテスタント運動の基本は、「聖俗二元論の撤廃」「万人祭司」の教説である。それゆえ、「聖職者と信徒の階位」などというものは存在しないし、再建主義は、そのようなものを信じていない。

「階位」とか「階級」を設けるのは、ローマ・カトリックである。ローマ・カトリックは、アリストテレスの「存在のヒエラルキー」を導入したから、「無生物」→「生物」→「俗人」→「聖職者」→「天使」→「キリスト」→「神」というような序列を作るが、プロテスタントは、「神のもとにおいて、人間はみな平等」「クリスチャンの間に序列はない」というのが基本である。

カトリックの宗教教義が、封建社会にふさわしかったように、プロテスタントのそれは、市民社会にふさわしいものだった。宗教改革が、16世紀から17世紀にかけて教会改革の枠を越えて大きな社会運動に発展したのは、当時の都市生活者や市民の経済的地位の向上と密接に連動したからである。

我々が「聖職者と信徒」を区別する区別の仕方とは、「それぞれが持つ固有の性質の違い」のゆえではなく、単なる「召しの違い」のゆえである。

つまり、「信徒は、牧師という職業そのものが偉いから従わねばならない」というのではなく、「牧師は教会を治めるために神に任命されたから従わねばならない」のである。教会の権威に従わねばならないのは、神が教会秩序を維持させるために、彼らを選んだからである。

ローマ・カトリックにおいて、「聖職」は「俗職」よりも尊いと考えられ、職業に貴賎を設けたのに対して、プロテスタントは、職業に貴賎なしと考え、あらゆる合法的な仕事を神から自分に与えられた尊い召しと考えたのだ。

これは「職業解放」の教義であり、近代資本主義社会を形成する上できわめて重要な役割を演じた。

しかし、最近、プロテスタントの教会においても、聖俗二元論が復活しつつあるのは残念である。

ある牧師は、「みなさん、そんな世俗の仕事をやっても、永遠の報いを受けることはできませんよ。魂の救済だけが報いのある仕事なのです。だから、一人でも多くの人が献身してくれることを願っています」と言った。

我々は、「どの仕事でも神からの聖なる召しなので、永遠の報いに値する。自分の持ち場で神のために、神の教えにしたがって働くならば、それがそのまま永遠の宝として天に積まれているのだ」と唱える。

 

 

2003年12月11日

 

 ホーム

ツイート