救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する13

 

<Y>

>しかし、山谷氏は、「女の頭は『男の栄光』を天使に対して現し
>ます」と述べ、頭をあらわにすることによって「女は、『男の栄
>光を現す』ことにな」る、と発言された時点で、すでに性による
>区別、「男女の権威の差」を認めており、それゆえ、超性別的経
>綸を否定しておられる。

経綸(英語で言えばディスペンセーションあるいはエコノミー)は、前の経綸を踏まえて、現在の経綸が成り立つという構造を持っています。

律法が支配する時代という「前経綸」は、キリストによって終わらされましたが、それによって律法が消滅してしまうわけではなく、天地が消え去るまでは、律法の一点一画も廃れることはないのです。
しかし、クリスチャンはもはや律法によって支配されることはありません。なぜなら、クリスチャンは、律法に対して死んだからです。

これと同様にして、超民族的経綸が導入された時点で、ユダヤ人もギリシャ人も共に等しく神に近づくことが可能になったわけですが、それによってユダヤ人が消滅してしまうわけではなく、ユダヤ人の選民性が取り消しにされることもないのです。

また、同様にして、超性別的経綸が導入された時点で、男も女も共に、キリストのからだなる教会において「神の器」となることが可能になったわけですが、それによって、男女の性差が消滅してしまうわけではないのです。

旧経綸である律法の支配の時代は、パウロによれば、仲介者である天使の手を経て導入されました。律法の厳格な運用については、天使がそれを監視する役を担っていると考えられます。

現経綸においては、「キリストにあっては、男も女もない」ゆえに、男も女も、同様にして、キリストのからだにあって言葉の務めを果たすことが出来ます。
しかし、男と女が教会において、まったく同じようにふるまった場合には、「性差が依然として存続している」ゆえに、監視者である天使が混乱してしまうのです。
なぜなら、女が教会において語ると、男の栄光が現されてしまうからです。

これは、旧経綸の監視者である天使が、依然として存続している人間の性差のゆえに、新経綸における人間の新しい行動様式によって、混乱を来たす可能性がある、ということです。

ですから、パウロは、天使に対する配慮として、「女はかぶり物をかぶり、それで、男の栄光を隠しなさい。その上で、女は教会で祈ったり語ったりしなさい」と言ったわけです。

しかし、パウロの個人的な確信においては、「女の髪は、かぶり物として神から授けられたものである」ということであり、新経綸を完全に実行するのであれば、「女はかぶり物をかぶらずに、祈ったり語ったりしてもよい」ということなのです。

ところが、当時の初代教会には、そこまで新経綸を完全に実行している教会が、まだ存在していませんでした。神のディスペンセーションは、新しい時代にすでに突入していたにもかかわらず、地上における神の教会は、まだその恩恵を十全に味わってはいなかったわけです。

これは、旧経綸から新経綸へ移行する時期において、人間の側が古いマインドセットから脱しきれておれず、新経綸に対応しきれていないという現象です。

そこで、パウロは、教会の現状を鑑み、妥協して、「女がベールをかぶるのは、現状では、そうするしかないことだ」としたのです。

<T>
いくつか問題があると感じられるので、長くなりますが論旨をご理解ください。

<クリスチャンはもはや律法に支配されないのか?>

山谷氏:「律法が支配する時代という「前経綸」は、キリストによって終わらされましたが、それによって律法が消滅してしまうわけではなく、天地が消え去るまでは、律法の一点一画も廃れることはないのです。しかし、クリスチャンはもはや律法によって支配されることはありません。なぜなら、クリスチャンは、律法に対して死んだからです。
これと同様にして、超民族的経綸が導入された時点で、ユダヤ人もギリシャ人も共に等しく神に近づくことが可能になったわけですが、それによってユダヤ人が消滅してしまうわけではなく、ユダヤ人の選民性が取り消しにされることもないのです。」

(1)
もし「クリスチャンはもはや律法によって支配されることはありません」というのが事実であれば、「天地が消え去るまでは、律法の一点一画も廃れることはない」という言葉にはまったく意味がなくなります。

今のクリスチャンにとって、律法とは、何か「昔の法律集」のようなもので、「命令」ではなく「参考」になってしまいます。

しかし、(T)キリストは、すぐ後に「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」(マタイ5・19)さらに、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5・20)と言われ、律法がけっして「参考書」に変わったのではなく、相変わらず「命令」であり、クリスチャンを支配していると述べています。「山上の説教」全体がこのことを主張しています。

(U)パウロは、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)とはっきりと述べ、「律法はもはやクリスチャンを支配しない参考書となった」のではなく、相変わらず「法」であることを証言しています。

(V)パウロは、「律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)と述べており、律法を有効としている。

(W)また、「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8・4)と述べて、クリスチャンの目的は「自分のうちに律法の要求が全うされる」ことにあると述べている。

(X)「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。」(1テモテ5・17−18)この個所において、パウロは、旧約律法を「基準」として扱っている。

(Y)
「私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。」(1コリント9・8−10)ここでも、パウロは、旧約律法を「基準」として、「労働者が報酬を受けるのは当然だ」という教えを述べている。

(2)
では、「クリスチャンは、律法に対して死んだ」と受け取れる個所は、どういう意味なのでしょうか。
それは、「クリスチャンは、『導き手』(ヘブル語で『律法』を意味するtorahは『導き』という意味)としての律法に対してではなく、『裁いて処刑する』律法に対して死んでいる」ということです。

もし「導き手」「法」としての律法が無効になったとすれば、(1)において挙げた個所を説明できなくなります。聖書は明らかに、一貫して、律法をクリスチャンの行動基準として扱っており、法としての効力を失ったとは述べていません。

効力を失ったのは、律法の中の、「クリスチャンを裁いて、罪に定める性質」だけです。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ7・4)

ここで、クリスチャンは、「キリストのからだによって、律法に対して死んでいる」と言われています。この節の後半と見比べるならば、「キリストのからだによって」は明らかに、「(クリスチャンは)キリストとともに十字架につけられ死んだために」と同義です。

そして、「神のために実を結ぶ」というのは、「律法と無関係にある」ということではなく、「(それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、)律法の要求が全うされる」(ローマ8・4)ことなのです。

結論:
律法は、今日においても、クリスチャンにとって「法」であり「基準」です。しかし、律法を守らない場合に処刑の宣言をする効力は失われています。なぜならば、キリストが私たちのために身代わりに処刑されたからです。

 

 

2004年1月7日

 

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