ほんとうの大人とは


<fms様>

私が改革派や長老派に対して抱くイメージは、「大人のプロテスタント」といったものです。改革派系(長老派系)のプロテスタントは、世界に四千万人くらい存在するのですよね。

改革派系は、いわゆるホーリネスなどの福音派などとは違い、常識的で非常に落ち着いているように思えます。

ルター派も大人ですね。

私には、改革派とルター派以外のプロテスタント諸派は、何か一種の新興宗教みたいな感じがして、あまり近寄りたくないと思います。

再建主義は、改革派の伝統にたつのでしょう?

何かそんな感じがしますが・・・。

どうでしょうか?

fms

<tomi>

私は、本当のキリスト教とは、大人の雰囲気をかもし出すものだと思います。

なぜならば、神の御心は、我々が「成熟する」ことだからです。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4・12-13)

ここにおいて、パウロは「完全におとなになる」には、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」が必要だと述べています。

もし教会に大人の雰囲気がないのであれば、それは、「神の御子に関する知識の一致」がなくて、それゆえ「信仰の一致」が欠如しているからだと思います。

では、信仰の一致がないのはなぜかと言いますと、聖書を権威とするのではなく、何か別のものが権威になっているからです。

聖書そのものに常に立ち返るのではなく、別のもの、たとえば、教会の牧師の個人的な意見とか、教派の非聖書的伝統などが権威となれば、それは新興宗教のような「歪んだムード」に支配されることになります。

大人の特徴とは、「保守的」「頑固」と同義ではありません。大人の特徴とは、「バランス感覚」なのだと思います。

パウロは、「愛は礼儀に反せず」と言いました。「礼儀に反する」という言葉ασχημονωは、「みっともないことをする、無作法をする、体裁のわるいことをする、恥ずかしいことをする」という意味で、成熟したクリスチャンは、他人が見て「みっともないこと」や「無作法」、「恥ずかしいこと」をしません。

しかし、教会は往々にして、聖書の真理ではなく、教派の伝統などに固執するあまりに、それ以外の教えをむやみに嫌うことがあります。

これは大人の態度ではなく、単なる頑固親父であり、未熟な心を表しています。大人とは、その内容を虚心坦懐に調べて、言葉にして反論しようとします。もし自分が間違っていたら、訂正するのに吝かではありません。

問題は、聖書です。聖書に何が書いてあるかです。それ以外のものを権威化する人は、幼児に退行します。

 

 

2004年2月14日

 

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