創造契約は業の契約ではない?4


<スミス氏>

いのちは、行ないによって得た祝福ではない。アダムとエバは、何かの命令を守ることによって、後でいのちの木の実から取って食べてもよいという状態にあったのではない。いのちの木の実は、最初から「ただで食べてもよいもの」として与えられていた。何度も言うように、最初から、名前のある木は二つしかなかった。その内の一つを食べてはならないと禁じれば、もう一つの方をどうぞ食べてくださいと招いていることになるのである。だから、いのちの木の実は最初から食べるように提供されていたのである。それだから、アダムとエバはそれを求めて園の真ん中へと歩いて行った。そのいのちの木の前に立ったときに、サタンが、その隣にある木から話しかけて、そこから問題は起こったわけである。

<tomi>

(1)
「いのちの木」は、「いのちの木からも取って食べ永遠に生きないように」といわれているように、「永遠のいのち」を象徴している。

それゆえ、いのちの木から取って食べることが最初から無制限に許されていたとするならば、まずいのちの木から取って食べて永遠のいのちを獲得した後に、堕落する可能性もあるということになり、堕落の状態が永遠に続くことを神が許すことになる。そうすれば、人間は「神に並ぶ永遠の主権者」となってしまう。

「永遠のいのちを与えるもの」は、神への服従を証明した者にしか与えられないという、聖書全体の主張と調和させるならば、「いのちの木」から取って食べるには、アダムはまず、自分の忠実を証明しなければならなかった、と考える以外にはない。

我々がいのちの木から取って食べることを許されているのは、「キリストにあって、自分の忠実を証明したから」である。キリストが我々の代わりに神のテストを受けてくださって合格した。それゆえ、キリストの契約の中に入り、キリストと一体化することにより、我々もテストに合格した者とみなされる。

もし、我々がキリストから離れて、自ら契約の外に出るならば、我々アダム契約の下に逆戻りして、自分の行為によって忠実を証明しなければならなくなるが、それは、不可能なので、永遠のいのちは与えられない。

(2)
もし、自由に「いのちの木」から取って食べることができたのであれば、人類の悲劇はアンラッキーが原因だったということになる。

つまり、アダムは、まず一目散に「いのちの木」まで猛烈ダッシュで駆けつけて、隣の木には目もくれず、エバと二人でまず、いのちの木から取って食べてしまえばよかったのに、ということになるのだ。そうすれば、まず永遠のいのちは確保でき、それで人類と宇宙の完成は確保できた。しかし、彼らは、よそ見をし、寄り道をしたばっかりに、えらいことになってしまった…と。

「いのちの木は無制限に手に取ることができた」と考えることは、問題を技術的な問題に貶めることである。

問題は、そのような技術的、方法論的問題ではなく、「神への忠実のテスト」という倫理的な問題だったのだ。

創世記3章は、「人間は自ら主権者となりたがったために、堕落した」という「主権の問題」を扱っているのである。

「いのちの木」の意味を知るには、その対称にあった、「善悪の知識の木」の意味を知る必要がある。

ヘブライ語において、「知識」は「区別」の意味があるので、善悪の知識の木とは、「善と悪を区別する木」の意味である。

つまり、「善悪の知識の木」から取って食べるということは、「善と悪を自分で区別する」→「自前の法を作る」ということを意味しているのだ。

もちろん、法制定者は、主権者であることを意味する。日本において国会が法律を作れるのは、国会議員が主権者である日本国民を代表しているからだ。

アダムとエバは、善悪の知識の木から取って食べたときに、「第2の主権者」→「神のライバル」になったのだ。

これは、「主権」という、キリスト教の中心的な問題である。

もし善悪の知識の木が、主権の問題を扱っているならば、いのちの木も同じ問題を扱っていると考えるべきである。

単なる「どちらを先に食べればよかったのか」というような方法論の問題ではない。いのちの木は、「神の主権を認める者に与えられる永遠の祝福と存在の保証」を意味すると考えるべきだ。

 

 

2004年2月20日

 

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