フルプレテリズムの課題


正直申しましてフルプレテリズムには非常に危ういものを感じます。

(1)
新しい律法が文字によらず、心に書き記されたものであるとすれば、70年以降、パウロの教えそのものも、書き記された権威ではなくなるからです。

なぜならば、パウロは、旧約律法を引用して、それをクリスチャンに対して適用し、「律法も言うように…しなさい」と教えているからです。

パウロの言説が当時の(つまり、70年以前の)クリスチャンに向けられたものでしかないのであれば、今日、新天新地に住む(つまり、新しい契約の中にいる)我々も、このパウロの教えを書き記された権威として読むことができなくなります。

今日流行している、「御霊に導かれよう」とか「文字にこだわるな」的な運動と同じものが生み出される危険性があります。

神が、これほど大切に、聖書を霊感を受けた御言葉として保持されてきたことを考えるならば、70年以降のクリスチャンには、「書き記された権威」はすでになくなってしまった、ということを神が許されたとは考えにくいです。

(2)
新しい契約が「心に書き記された律法」によるものであり、古い律法は廃れて、消滅したというのは、「けっして」律法そのものが廃棄されたことを意味「しません」。

ヘブル8・8から、「新しい契約」について記されており、13節で「年を経て古びたものは、すぐに消えていきます」という個所は、律法の廃棄を述べたものではなく、「律法の犠牲制度の廃止」を述べたものに過ぎません。

なぜならば、この文脈をたどっていくと、10章で、こういわれているからです。

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、
また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。 (4−9)

7章から10章にいたる議論の流れは、「キリストの影」としての祭儀律法が廃れて、本体であるキリストの犠牲が現われるということであって、律法全体の無効化を述べているのではありません。

では、「律法が心に書き記される」というのはどういう意味か、と言うと、それは、この文脈を考慮すれば、「聖霊が与えられ、祭儀律法が表す本体としてのキリストについての知識が内的に啓示される」ということです。

70年以降になれば、律法は不要になり、心の律法だけでよいというような教えは、非常に危険だと思います。

律法は、「(神の)知識と真理の具体的な形」である以上、もしフルプレテリズムが、人間生活のあらゆる部分に関する導きとしての律法の立場を否定するならば、それらの領域に再度ヒューマニズムの侵入を許すことになります。

(3)
この物質世界は永遠に続くという考えは、パウロが「血肉の朽ちる体は、朽ちない御国を相続できない」と教えたこととはっきりと矛盾します。

(4)
大宣教命令のところで伺おうとしたのは、「すべての国民の弟子化」が70年に完成したのであれば、その命令自体は、「我々への直接的命令」ではないということにならないか、という点にあります。おそらく、フルプレテリストは、「教訓としては学べるが、それを我々に対する直接命令とは考えられない」としか解答しないと思われます。

その場合、いくらフルプレテリストが「御国の拡大のため、新しい契約への招きをすべきだ」と述べたとしても、「大宣教命令は我々に対する命令ではないし、もはや新天新地が到来しているのだから、そのような解答には意味があるとは考えられない」と対応されてしまうでしょう。

私が懸念するのは、フルプレテリズムが導入された場合に、プレ・ミレやパーシャルプレテリストが提示しているもののしっかりとした代替案を提示しない限り、クリスチャンを空中に放置するということになる、という点にあります。

 

 

2004年2月20日

 

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