救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する6

 


山谷様 アップを感謝します。
議論の続きとして題名をそのままにさせていただきました。

<Y>

>反論するまでもないことですが、「聖書の権威は絶対的である」
>と信じるのはキリスト教の基本であり、「聖書のみ」を唱える宗
>教改革の基本でもあります。

わたしも、聖書の権威は絶対的であり、聖書のみを信じています。
しかし、社会と司法の構築についても、絶対的な規範が
聖書に啓示されているかどうか、という点については疑問です。
この「社会と司法」言い換えれば「政治と経済と法律」
について、旧新約聖書は絶対的な規範たり得るでしょうか?

たとえば、次のような素朴な疑問が起きてきます。

1.普通選挙によって選出された代議員で構成される議会制
  民主主義政体は、どの聖句によって支持されるか?

2.女性の参政権、女性の社会進出、女性が男性の上司になる
  こと、男女平等参画社会の推進は、どの聖句によって
  支持されるか?

3.キリスト教徒がキリスト教徒に対して利子付融資を
  行うという「金融」は、どの聖句によって支持されるか?

4.現代法は、(1)異教徒であったアングロ・サクソンの
  慣習法と、(2)異教徒であった古代ローマのローマ
  市民法及び、反キリスト教的なフランス啓蒙主義に
  より生まれたナポレオン法典との、二つに大きく影響され
  ている。
  再建論者が議会において多数派を占めるようになった
  場合は、現代法の中から(1)と(2)の要素をパージする
  ことになるのか?

5.合衆国憲法の修正条項で保障されている人民の武装の権利と
  連邦政府に対する抵抗権は、どの聖句によって支持される
  か?

わたしの信仰的な立場は、旧新約聖書は、わたしたちを救いに
至らせる知識において「完全かつ絶対的な啓示である」という
ものです。


<T>

>わたしの信仰的な立場は、旧新約聖書は、わたしたちを救い
>に至らせる知識において「完全かつ絶対的な啓示である」と
>いうものです。

救いに至らせる知識に関してのみ権威であるならば、たとえば、パウロが説く結婚生活に関する戒め、飲酒、市民的権威に対する服従、労使関係、夫婦関係、親子関係、そして十戒をはじめとする旧約律法など、無数にある日常生活、社会生活に関する教えは権威をもっていないということになります。

これは、実質的に、「聖書の権威は絶対的であ」ることを否定し、「聖書のみを信じてい」ないのと同値です。

たとえば、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい」(エペソ5・3−4)という戒めは、「わたしたちを救いに至らせる知識」ではありません。なぜならば、行いによって人は救われないからです。

ということは、このパウロの教えは絶対の権威をもっていないということになるのでしょうか?

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5・22)は、同じように「わたしたちを救いに至らせる知識」ではありません。これは無視できるのでしょうか?

もし無視できるのであれば、「聖書の権威は絶対的である」と言ってはなりません。普通のクリスチャンは、あなたを、普通歴史的正統的なキリスト教が意味する「聖書信仰者」と誤解するでしょう。

「聖書の権威は『わたしたちを救いに至らせる知識』についてのみ絶対的である」と言いかえなければなりません。

そして、「では、『わたしたちを救いに至らせる知識』以外については何が権威なのか?」という疑問にも答えなければなりません。

また、もし「わたしたちを救いに至らせる知識」以外において、聖書が絶対的権威でなく、別のものが権威であれば、では、「罪とは何か?」という問題が起きます。

「わたしたちを救いに至らせる知識」以外については、別のものが権威であれば、「では、どうやってある行為が善であるか、悪であるかを判断すればよいのか?」という問題が起きます。

そして、その悔い改めの対象は誰かという問題も起きます。なぜならば、最高権威は聖書ではなく、別のものなわけですから、「一体誰に悔い改めをすればよいのか?そして、その悔い改めは本当に有効なのか?その悔い改めが有効である保証は誰がしてくれるのか?」という疑問も起きてきます。

つづく

 

 

2004年1月5日

 

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