救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する34

 


もれ がありましたので追加します。


<Y>
聖書の絶対的権威について

人間の理性能力は、堕罪によって損なわれいるから、人間は、理性を用いては、ものごとを正しく認識することが出来ない。それゆえ、神の誤りのない言葉である「聖書」をすべての認識と思考の大前提として据えない限り、人間は、いかなる真理も認識し得ない。

・・・というのが、ラッシュドゥニー博士の前提主義であると考えてよいでしょうか。

聖書が絶対的真理であるとして、それを解釈する人間は、理性能力を用いて解釈するわけですから、そこには当然ながら堕罪の影響が入り込み、誤った解釈をする可能性があります。

そこで、「すべての聖書解釈は、そこに人間理性が関与するゆえに、相対的である」ということになります。

さて、絶対的真理である聖書を、理性能力を用いて解釈した結果立てられたラッシュドゥーニー博士の理論体系、あるいは聖書律法綱要は、上記の論理からすれば、当然のことながら、「相対的である」ということになります。

そこで、すべてのキリスト教徒は、「絶対的真理である聖書を尊重しなければならないが、相対的で、かつ、誤謬を含むラッシュドゥーニー博士の理論体系については、尊重する必要はない」ということになります。

つまり、聖書が絶対的真理であっても、理性能力を用いた解釈という作業がプロセスに入り込んでいる限りにおいて、
再建主義は、有誤有謬なのです。

さて、ラッシュドゥーニー博士と、その弟子であるゲイリー・ノース氏は、ノース氏の出版しようとした著作の内容の是非をめぐって、路線対立し、議論の末に、別々に分かれました。
この事実は、まさに、再建主義が相対的なものに過ぎないことを示しています。

<T>
当然です。
再建主義者だれも、「自分の意見は絶対である」などと言っておりません。
もし「自分の意見は絶対である」と宣言したら、その人は、異端です。

前提主義というのは、「聖書を出発点として世界を認識しなければならない」と説く説であって、「聖書を絶対だと信じる人間の解釈は絶対だ」と説くものではありません。

しかし、「聖書を解釈する人々は有誤有謬である」→「聖書は絶対の権威である、ということに意味はない」とはなりません。

結局、人間は、神学を発展させることによって、より正確な聖書解釈を目指さねばならないが、絶対に正確な聖書解釈が理論的にありえない以上、正確な聖書解釈を目指すことは意味がない、だから、神学は無意味だ、再建主義を検討する必要はない、ということにならない。

 

 

2004年1月12日

 

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