『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論4

 


<K>
 そうした中で極右の「神律的再建主義」(Theonomic Reconstructionism)はキリスト教以外のあらゆる宗教を禁じて、それに違反した者を処刑すべしと唱えることでも極端である。すなわち同性愛、姦淫、背教、偶像崇拝、両親への不服従、星占いをした者はモーセの律法にしたがって死刑にする、というのである。

<T>

(1)
まず一言:「極右」という言葉によって、日本人が抱くイメージを考えていただきたい。街宣車から大騒音を流し、反対者を暴力によって粛清する危険な図を読者に想像させないか? 

このような極端に偏った理解の第一の原因は、おそらく、批判者がそのオリジナルのソースを丹念に調べておらず、同じように無知なアメリカあたりの解説者の言説をそのまま鵜呑みにしたということにあるだろう。

ラッシュドゥーニーが、モーセ律法の刑法を適用せよ、と言った時に、それは、あくまでも「モーセ律法を受容した社会に対して」なのである。

モーセが律法を提示した時に、荒野のイスラエル人たちは「私達はそれらを守り行ないます」と確約し、合意の上で神と契約を結んだ。

「モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。』それでモーセは民のことばを主に持って帰った。」 (出エジプト記19・7-8)

「そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。『主の仰せられたことは、みな行ないます。』」(出エジプト記24・3)

モーセの諸律法は、守ることに合意した民に対して与えられた「契約の規定」であって、守ることに合意していない人々に向けて語られたものではない。

それと同様に、再建主義がモーセ律法を法律として具体化せよ、と主張する場合、それは、「キリストを救い主と認め、聖書の知恵が最善である」と認めた国と国民に対してであって、まだ、同性愛も姦淫も自由ですばらしいものだ、と誤解している現代の未熟な世界に強引に適用すべきだと言っているのではないのだ。これらの「極端」と言われる律法を適用する前に、まず人々の心が十分に整えられていなければならない。

放蕩三昧がどんなに苦しいものであるかをとことん味わい知って、「無律法は嫌だ!神の支配の下にある秩序ある生活がしたい」と叫ぶ国民が圧倒的大多数を占めなければ、現実の世界に適用するには時期尚早である。

(2)
姦淫、同性愛、異端、異教、占いなどの罪をどのように扱うかは個別に聖書を調べ、慎重に検討すべきである。「事実が証明されれば、一律、即死刑」などということを我々は述べていない。

たとえば、聖書において、姦淫罪は、被害者である配偶者が同意しない限り、死刑にはならない。マリアが妊娠した時、ヨセフは、「内密に離縁しようとした」と書かれてあり、しかも、ヨセフは「義人」と言われている。

「両親への不服従」を死罪に当たるなどと、再建主義者の誰もいっていない。いわゆる反抗期の生意気盛りの子供などについて述べていると誤解してはならない。
聖書が述べ、我々が主張しているのは、いかなる訓戒も効果がなく、まったく手に負えない非行者についてである。今日でも、家庭内暴力のため、殺す以外に方法がなくなって無念にも自分の子供に手をかける事件がよく報道されるだろう。
たとえ、このような手に負えない非行者についてであっても、被害者である両親が訴えない限り、処刑されない(申命記21・20)。

異端、異教や星占いなど、今日悪と考えられていない問題について、厳罰の適用について触れることは誤解を招く。

私は、人々がキリストを通して注がれる神の愛を十分に知り、悪魔の支配よりも、キリストにある神の支配のほうが格段に幸せであることを十分に体験した人々が圧倒的大多数を占める社会にならない限り、これらの問題について説明しても、人々は理解できないだろう、と考える。

たとえば、麻薬中毒についてまったく知識がなく、その地獄の苦しみを味わったことのまったくない人々に向かって、麻薬の害を説き、麻薬の売買を厳罰に処すべきと説明することが難しいのと同じである。

今日、異教や異端について厳しいことを言うと、人々の反発を受けるのは、今日のキリスト教文明の影響とその恩恵を受け、解放された社会に住む人々が、異教や異端の実態について忘れてしまっているからである。

オウムの事件や統一協会の実態、ものみの塔などの輸血拒否など、間違った教えがどのように人間を悲惨に陥れるかを垣間見ることができるが、しかし、これらの教えを信じる人々が少数派に留まっており、長期間に渡って絶大な影響を社会に与えているわけではないために、人々は「宗教的多元主義」を許容すべきだと考えているのである。

ソ連や東欧、カンボジア、北朝鮮などの大衆は、共産主義の恐ろしさを肌身にしみて知っている。戦前の天皇教の恐ろしさは、日本人に忘れ去られようとしている。

今日の社会に散見される異教は、キリスト教の洗礼を受けているのである。神道にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、みな今日のキリスト教的法体系によって牙を抜かれ、化粧をされているから、その実態が忘れ去られているのである。

もし、これらの宗教が社会の基盤宗教となり、その原理が剥き出しのまま政治や経済に適用されたらどうなるだろう?キリスト教が達成し、我々の社会の土台を構成している立憲主義や法治主義、資本主義、科学主義を取り去って、異教のシステムをそのまま導入したらどうなるだろう?

社会がこれらの偽りの教えに対して無防備ならば、そのような悲惨な社会に逆戻りすることは十分にありえる。



 

 

2003年12月7日

 

 ホーム

ツイート