フルプレテリズムの課題4


パーシャルプレテリストは、現代の世界を「黙示録20章の千年王国の時代」と見るが、フルプレテリストは、「すでに永遠の御国、新天新地である」と言う。

たしかに、イエスがマタイ24章において「雲に乗ってやってくる」が紀元70年のユダヤ滅亡を表しているならば、もう一つ別の再臨を設定することにいかなる聖書的根拠があるのか、と問われても仕方がない。

チルトンは、以前パーシャルプレテリストで、ゲイリー・ノースと一緒に仕事をしていた。

彼は、「2度の復活」を根拠に、紀元70年の来臨は、「歴史の中間における来臨」であり、終末における再臨は「歴史の最後における来臨」であると著書『復讐の時』において述べた。

しかし、チルトンは、後でフルプレテリストに変わり、自分の立場を捨てた。

その後、心臓病で急死した時に、ゲイリー・ノースは次のようなかなり辛らつなことを述べた。

「チルトンは晩年に異端になった。これ以上彼の影響が広まらないためにも、彼の死は神の御旨なのだろう。私は彼が立場を変更したが、彼の著書の権利は私のものなので、これからも彼の著書を利用させてもらう。」

パーシャルプレテリストとフルプレテリストの間の議論が非常に重要なのは、チルトンのような変化はこれからもパーシャルプレテリストの中に起こると予想されるからである。

パーシャルプレテリストは、人々を未来派から決別することを促したが、しかし、いったん過去派に入ってしまうと、フルプレテリズムを思いつくのはある意味で必然といえる。

未来派は、「マタイ24章で言われている世界宣教はまだ終わっていない。だから終末はまだだ。」と言うが、過去派は、「パウロは『この御国の福音はごらんのように全世界で実を結んでいる』と述べているのだから、『聖書は聖書によって解釈する』という立場を取れば、当然『世界宣教は終わった』と考えざるを得ない」という。

となれば、「マタイ24章の『天地は滅びます』も、あれは、紀元70年の出来事を意味していたのではないか?」と考えるのに時間はかからず、それゆえ、「新約聖書の記者たちにとって、世界の終末と述べているのは、実はイスラエルの終末だったのではないか?」との疑問は当然のことながら出てくる。

黙示録の成立年代に関する問題も、パーシャルプレテリストによって、「あれは70年以前だ」と証明されてしまっているから、フルプレテリズムは、「ヨハネが新天新地と述べたのは、紀元70年以後の世界だ」と容易に主張できる。

パーシャルプレテリストが地ならししてくれたおかげで、フルプレテリストには大きな道が開けたと見ることができよう。

さて、しかし、フルプレテリストにいたるには、いくつかの課題が残されている。その課題を解決しない限り、完全な移行は起こらないだろう。私がここで取り上げているのは、その課題を鮮明化するためである。

アウグスチヌス、カルヴァン、ルター、カイパー、ヴァン・ティル、ラッシュドゥーニー、バーンセン、ゲイリー・ノースなど、これまでの神学は、終末論について目が開かれていたとは言えない。黙示録も「謎の書物」に留まってきた。

しかし、今や、神は黙示録の内容を明らかにされ、聖書が描いている世界史の全体像を明らかにされようとしていると考える。

それは、もしかして、それまでの神学的営為をひっくり返す、全体的・徹底的なパラダイム転換を意味するかもしれないのだ。

再建主義者パーシャルプレテリストたちは、恐るべき「パンドラの箱」を開けてしまったのかもしれない。

 

 

2004年2月21日

 

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