神学的大掃除が必要だ


先日、友人の紹介で、ある有名な教会の副牧師と面会した。友人はその教会の信徒であり、一度ポスト・ミレについて彼に話して欲しい、と私に依頼したからだ。

しかし、最初から彼は、私を疑いの目で見ているのが明らかだった。彼は、何年か前に私がハーザー誌において奥山実氏と論議したことを知っていた。もちろん、奥山氏は、有名な人であり、ある意味において名声を博している人でもあるから、彼と対決した私が疑われるのは無理もないことだ。

開口一番、「私は、もうハーザー誌に載っているいろんな難しい話は読まないんですよ。」と。「もう頭が痛くなってくるのでね。」

この副牧師の上にいる牧師は、精力的に伝道することで有名だ。そして、常々「あまり神学的なものは、頭が痛くなるから読まない」と公言している人だ。

恐らく、副牧師のこのような態度は、この牧師の影響なのだろう。

このような神学嫌いの牧師は今日けっして少なくない。

「神学なんてやっていないで、伝道しろ」と先輩牧師からはっぱをかけられてきたからだ。

かの奥山氏も、私に向かって、「若いうちは(わたしもう中年なんですけど)、神学なんて研究せずに、牧会に専念すべきだ」というようなことを言った。

この世代の福音派の牧師は同じようなことを言う。「勉強してもはじまらない。信仰は単純なほうがよい」と。

しかし、考えて欲しい。

牧師は、「神の奥義の管理者」である。

信徒に真理を伝え、「真理の言葉」によって牧会する使命があるのだ。

そして、これこそ、中心である。もし、牧師が虚偽を教えていたら、いくら熱心に活動していていも、何にもならない。

「教え」は牧師の働きの中心であるから、「若いうちは勉強するよりも…」なんて言えないはずではないか。

むしろ、頭が柔らかくて、語学の勉強もできる若いうちに、なんだかわけのわからない会議だとか、信徒を甘やかすようなべったべたのお世話なんかばかりしていたら、自分の人生の貯金ができないではないか。

「神学の本を読むと頭が痛くなって…」というなら、その人は牧師に向いていないのだ。

牧師は、聖書に関してはプロであり、何が聖書的で、何が異端か、についてするどい見識がなければならない。そうでなければ、どうやって、教会に侵入する狼を見抜くことができるのだろう。

医者は、最新の医療について絶えず勉強しなければならない、と聞く。

医者は、プロとして、病気に関しては、常に最先端の知識と技術について知識を得なければならないだろう。

その他の職業についても同じだ。それで飯を食っているなら、当然だろう。

しかし、こと牧師の世界は、他のプロの世界と違う。

勉強すると怒られるのだ!

自分のプロの道において、進歩しようとすると批判されるのだ。

今日、ほとんどの教会が、異端に侵されたのも当然と言わねばならない。

なぜ、先輩牧師は後輩牧師が勉強することを嫌うのだろう?

それは、「真理に目覚めると、批判の対象になり、自分の王国が壊れるから」である。

今、大きな手術が必要である。

聖書以外のものによって築き上げられ、機能不全に陥っている教会を救うのは、聖書の真理に立ち返ることだ。

そのためには、牧師は勉強しなければならない。そして、真理と異端の区別ができる「識別力」を養う必要がある。

教会が真理に立った時に、はじめて聖霊の自由が働きがあるだろう。

聖霊をお迎えするには、大掃除が必要なのだ。

 

 

2004年3月5日

 

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