自分が信じてもいないもので人を責めるのはサタンのやり方である


山谷氏は、最初、「聖書は、救いに関することのみにおいて権威である」と言っていました。

しかし、男女共同参画社会や被り物の問題になると、聖書を権威として議論しました。

そこで、「あれっ?救いに関すること以外でも聖書を論拠にしていいんですか?」と聞くと、黙ってしまいました。

自分が確固たる信条を持つのでも、聖書啓示を生活のあらゆる分野における無謬の権威であると信じてもいないのに、信条や聖書啓示を根拠に相手を批判するというのは、サタンのやり方です。

スミスさんが面白いことを言っていましたね。

子供の頃、近所のガキ大将が、おまえは、人の家の窓ガラスを割る勇気があるか?とけしかけられたので、石を投げて窓ガラスを割ると、とたんに、「おまえが悪い!」と叫び始めた、と。

サタンは、誘惑して、罪を犯させておいて、人が罪を犯すと、こんどは、その人を神の基準を持ち出して責めたてる。

ギリシャ語で「サタン」とは、「敵」という意味で、敵は、論理的一貫性とか法に対する忠実なんかよりも、「とにかく相手をダメにする」ということのほうが大切なんです。

自分のことを棚に上げて相手を貶めるってのは、サタンに憑依されている人間のなせる業です。

 

 

2004年2月25日

 

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