フルプレテリズムを異端と宣言します 2



このような結論になったことは非常に残念ですが、私のこれまでフルプレテリズムについて数々書いたとおり、フルプレテリズムから私の指摘に対する聖書的「解答」を得られていません。

ここは誤解しないでください。私の側からは、無根拠に批判をしておりません。きちんと証拠テキストを挙げて反論し、それはかなりの数に上っています。そして、それに対するフルプレテリズムの弁証を期待しているのです。

それから、もうひとつ、「聖書は聖書によって解釈する」という解釈の基本原則は、同時に「聖書全体の主張との間に論理的整合性のないものを否定する」ということでもあります。

他の個所、そして、聖書全体の主張と調和するか、しなければ、その解釈を拒否するということでもあります。

最後の掲示において述べた、「再臨がもう終わり、この世界が永続するならば、善と悪とが永遠に共存することになる」(*)という言葉は、聖書全体の主張「神は絶対者であり、神を唯一絶対の主とする世界に回復され、ライバルの永続を許さない」(オバデヤ3,4)と明らかに矛盾するため、「聖書テキストによる反論」と並んで批判としては有効なのです。

ですから、「聖書から否定できないではないか」というフルプレテリストの主張は間違いです。

残念ではございますが、これは、人間的な対立とか、感情的な分裂とかではないことを、ご了承ください。

たとえ小さな違いに思えても、「それを信じることによって、最終的に大きな問題に発展する」と予想される教理的問題の場合には、共存は不可能です。

今後も、聖書テキストからフルプレテリズムに対しては反論を継続させていただきます。

私は、フルプレテリズムの側から十分に聖書的な解答が得られない限り、私の立場を変えるつもりはありません。

ご理解をお願いいたします。

在主



(*)

内容:

再臨が終わってしまい、今の世界が永遠の世界であるということになれば、善と悪が永遠に共存する(もしくは戦い続ける)ということになり、マニ教と同じになってしまいます。

これは、私の神観を大きく揺らがせます。

神が絶対者であり、「暗いところが少しもない」という方であれば、神はご自身が施行された法律に対して違反する者に対して決着を完全につけられるはずです。

十字架の解決法は、それを示しています。

(1)神は義である。
(2)人間は罪人である。
(3)神は愛であり、人間を救おうとしておられる。

この3つを、「神ご自身がその絶対性を維持しつづけながら」解決する方法は、十字架以外にありません。

もし、神が、法律違反者を裁かずに、無根拠に許し、野放しにすれば、神は自分が人間との間に立てられた契約を自ら破ることになります。

しかし、神は同時に愛であり、人間が滅びて永遠の刑罰に遭わせたくないとお考えであり、彼を救おうとされています。

その場合、代理者を立てて、彼の上に刑罰を下し、義を満足させる以外にありません。十字架において、神は我々の身代わりにキリストを裁かれ、我々の違反を完全に処理されました。

神は御自身の絶対性、法的(または契約的)忠実を損なわれることなく、人間を許すことがおできになります。

しかし、もし、神の主権を認めず、この救いを拒む人、そして、サタンや悪霊の場合、彼らは、革命者になり、神のライバルになりますので、絶対者である神はご自分に並ぶ主権者を許さないお方である以上、永遠の刑罰の中に入れる以外にありません。

現在の世界は、「悪が許容されている世界」であり、最終的な状態では「ありません」。

最後の審判は未来にあります。その時、神おひとりだけが主となり、反逆する者たちの口は完全に封じ込められます。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22・13)

 

 

2004年2月22日

 

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