この世には神礼拝かサタン礼拝かのいずれかしかない

 


「サタン礼拝」という言葉は、強烈に聞こえる言葉かもしれません。

しかし、プレ・ミレやア・ミレは、「すべての国民を弟子とせよ」という命令は、歴史の中において実現しない、と唱えます。

神が「弟子とせよ!」と命令し、しかも、「私は天地において一切の権威を持っている」、「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と約束してくださったにもかかわらず、「できるはずはない」と言うことは、明らかな命令違反、反逆であり、神への不信です。

神への不信はすべて、「その他の何かに対する信頼」を意味し、「その他の何かに対する信頼」は偶像礼拝であり、偶像はサタンなのですから、「実質的に」サタン礼拝なのです。

聖書が一貫して述べているのは、「御心ならば必ず実現する」と信じなさい、ということです。

ローマ人の軍人が、中風で苦しむ部下の癒しをイエスに求めた時に、「わざわざ来ていただかなくても、言葉をいただければ治る」という信仰を表明しました。イエスは、これに対して立派な信仰だ、と賞賛されました。

「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。『主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。』
イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』
しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに「行け。」と言えば行きますし、別の者に「来い。」と言えば来ます。また、しもべに「これをせよ。」と言えば、そのとおりにいたします。』
イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』」(マタイ8・5-10)

このように、聖書は、「神は何でもできる」という信仰を奨励しているのは明らかなのですから、「やれ!」と言われて「できません」と答えることは、明らかに罪です。

エリヤとバアルの偽預言者との対決の場面で、エリヤは、イスラエルの人々に迫って言います。

「エリヤはみなの前に進み出て言った。『あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。』しかし、民は一言も彼に答えなかった。 」(1列王記18・21)

そして、次のように言います。

「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」(同24)

ここの個所は、民の霊的状態を示しています。民は、神とバアルのどちらを選ぶか迷っていました。

「はたして、エリヤの祈りが聞かれるのか、それとも、バアルの預言者の祈りが聞かれるのか、見てみよう」と考えていました。

つまり、民は、主の力を信じていなかったのです。

そして、このような状態を、エリヤは、「現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています」(同18)と評価しているのです。

聖書は、ここにおいてはっきりと、イスラエルの民の不信は、「バアル礼拝」であると述べています。


この、「神対バアル」の記事は、この世には、「神礼拝」か「サタン礼拝」かのいずれかしか選択はないということを教えています。

神を信じない人々は、サタンを拝んでいるのです。

 

 

2003年12月28日

 

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